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あの日以来、父さんは特に何も行動を起こさなかった。
首の傷も、少しずつ癒えてきた。
朝刊を配って、現場へ出かける時と、店員さんを送って帰って来た時。
長時間全く動かなかったように、父さんは布団に寝ている。
枕元の痛み止めと水だけが減っている。
隣に置いてあるおかゆは、手を付けていたり、いなかったり。
食事をきちんと取らないといけないと言われているのに。
もう酒も取りに行けない様だ。
いや、動く気力がないだけか。
この狭いアパートの部屋で、天井を睨んだまま、何を考えているんだろう?
通院日。
父さんを支えて、アパートの階段を下りる。
父さんの体重が、俺の腕にかかる。
脚の筋肉が衰えていて、一人で歩く事も困難だ。
階段から落ちないようにゆっくりと一歩ずつ降りる。
呼んでおいたタクシーに乗せる。
たったこれだけの事なのに、じんわりと汗をかく。
父さん、辛くないかな。
父さんは窓の外を流れていく景色をじっと見ている。
父さんの診察が終わって、医者に呼ばれた。
このまま行くと、意識がなくなり昏睡状態に陥る、と。
治療として、生体間移植を視野に入れてはどうだろう、と。
日本では生体間移植はドナーが極めて少ないから、俺の肝臓を移植出来れば一番ベストだと。
俺の肝臓を……?
帰りのタクシーの中で、考える。
手術自体にも、莫大な費用がかかる。
成功するかどうかも分からない。
俺の体が元に戻るまで、どれくらいかかるだろう。
その間の生活費、どうしよう。
高校の入学金に、とちまちま溜めていた貯金の額を考える。
……だめだ、とっても足りない。
父さんは窓の外の景色を見ている。
医者の言葉に、無言で首を横に振ってた。
父さんは手術を受けたくないんだろうか。
そんな事すら聞けない。
タクシーの窓を見つめる父さんの背中。
いつだろう、最後に父さんを正面から見たのは。
ずっと俺に背を向けてきた父さん。
俺を拒否するように。
そんな父さんに、俺は一度でも向き合おうとした事があったのか。
ない。
怖かったから。
そうして、大事な質問すら口にするのを戸惑う。
父さんをこんな状態にしたのは、俺だ。
母さん、ごめん。
俺、父さんを背負い切れない。
続く