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おっといけない、またやった。


最近は少なくなってきたけど、気が抜けると無意識で、昔の家へ向かってしまう。


アパートに戻るつもりで気が変わって、そのまま家へと行ってみる。


長い間歩きなれた道。


目をつぶっても、きっとたどり着ける道。



外から家を覗く。


ちょっと前まで住んでいたのに、こんな風に覗き込むなんて不思議な気分だ。


まだ誰も住んでないらしく、当たり前だけど庭も玄関もガランとしていた。



母さんが生きてた頃は、庭にたくさんの花が咲いていた。


俺が生まれた日に、父さんが植えた桜の木。


毎年花が咲くと、ベランダで三人で花見をした。


毎日父さんとトレーニングをした。


庭に干されるたくさんのTシャツ。


父さんが揃えてくれた、キックミットやサンドバック。


母さんの笑い声。




桜の木だけを残して、今は何も残っていない。


たった1年で、こんなに変わってしまうなんて。



引越しの日、父さんが持った荷物は、母さんの写真と戒名だけだった。


他には何も必要なかったんだろう。


俺も必要最小限のものしか持たなかった。


生活に必要なものだけ。


ボクシング用具も、全て売ってしまった。


けど、どうしてもグローブだけは捨てられなかった。


もう出来ないっていうのに。


生活には一つも役立たないのに。



日が暮れかけて強くなった風が、俺の涙を飛ばす。


俺は最近、涙もろい。


今日だけだから、母さん。


もっと強くなるから。


父さんを支えていくから。


だから、今だけ泣かせて。



続く