携帯灰皿を胸ポケットにしまい、カフェに戻ろうと振り向くと、


彼女がそこに立っていた。


いるはずのない彼女が。


何時からいたんだろう?



軽い衝撃と共に、受け止める体。


あっという間もなく、彼女が俺の胸の中にいた。



離さなければ。


そう思う頭と裏腹に、体が凍りついたように動かない。


抱きしめもせず、ただ抱きしめられたまま。



冷え切った体。


その奥から伝わる彼女の温もり。


温かい。


髪の毛に、桜の花びらが絡みついている。


髪から立ち上る甘い匂い。


麻薬のように麻痺させて、俺の思考を奪う。



花冷えの凍てついた夜。


こんな日には誰だって、温かくて甘いモノが欲しくなる。


自分の腕の中にいるのなら、尚更。


全ては本能のままに。


両腕でそっと、彼女の体を包んだ。



「俺は、結婚してるよ」


「……知ってます」


「責任は、取れない」


「そんなの……いらない。今は……傍にいて」


彼女は選んだ。


俺は選ばせた。


卑怯者。



掬い上げる黒い瞳、俺が映る。


深い闇、桜の花びらが舞う。


彼女が誘い、俺が選んだ。


二人で秘密の闇に堕ちていく事を。



桜の花びらが空へ舞い上がり、二人の姿を蔽い隠す。


流れていく黒い桜の帯の行く先は、闇に閉ざされて見えない。



合わせた唇から甘い吐息が漏れる。


違和感が消え、甘い罪悪感と快感が体中を巡る。


両腕に力を込め、彼女の体を引き寄せる。


同じ速度で、堕ちていけるように。





『花冷え』