川の中を曳いたのは丸太1本、

それを乗せた台は、橇。

そして山車に乗せるには、堤防を越えなければならない。

 

 

私たちの前のチームには太鼓チームがついていて、

堤防に上っては河原に下りること3度、

賑やかな太鼓のリズムに乗って遊び感たっぷりにやっている。

 

こちらは最終チーム、

夕方5時には外宮の境内に入っていなければならないらしく、

前のチームの進み具合が気になる。

でも、遊びたい。

やっと堤防の上に引き上げるが、

すぐに降ろすのではなく、

堤防を支点に、丸太に付いた水を切るように

上下に大きく揺する。

そして全チーム同様河原に引き戻す。

それも2度。

2度目は戻し方が足りないと思ったのか

一旦止まったのに、もう一度川の方に向かう。

流石に川に入ることはなかったが、

20年前には入っている。

 

そして堤防の上に。

上下に揺すったところで、木遣りが入り

えいや、と、一気に堤防を降りる。

 

私はここしばらく走ったことが無かった。

何年前か、横断歩道の信号が点滅したので、

走ろうとして、全く足が動かないことに気付いた。

それ以来走ろうとしたことはなかった。

 

綱は2本

道幅は車幅の広い車だとギリギリかと思われるほど

狭い。

しかも電柱が挟むように立っている。

走るのはやめようと思っていたが、

抜ける場所がない。

えいや!

声が掛かった。

えっ? 走るの?

綱に引っ張られるように走り出した!

あっ、走っている!

電柱が迫ってくる。

わっ、

かわしている!

 

足が回転している。

いやいや自発的に走っているんじゃない。

あれえ、走り切ってしまった。

 

皆んなで引っ張りゃあ、怖くない?

20年に1度の遷宮、

たまたま彼が人形劇をやっていて、

たまたま彼が、私たちの泊まっていた研修センターに泊まり、

たまたま一緒にお酒を飲んで

たまたま彼が木遣りを唄い、お木曳きに誘ってくれなければ

20年前に参加することはなかっただろう。

そしてお木曳きに参加して、はまった。

 

その町内会は神領民として神事を執り行うのだが、

まあ、祭りなのだ。

 

今年の川曳きは予定を30分遅れて始まった。

20年前はかみさんも綱を曳いた。

急な土手を登ろうとするし、

動かないと思ったら後ろで引っ張っていたりして、

遊びに戸惑ってしまったが、

これが町内会の祭りと判ると、

俄然楽しくなってしまう。

お伊勢さんのイメージが、がらりと変わってしまったのだ。

 

さて今年は年齢が年齢だけに

川に入るのはやめようと思っていた。

 

 

いざ木を曳き始めると

私の周りは女性と子供だらけ

川に入る直前、私が抜けるよりも早く彼らは抜けてしまい

私が抜けると綱が地面に着いてしまう事態に。

綱を地面に着けないのが鉄則なのだ。

あれ、抜けられない、と思っているうちに

バシャバシャと川に。

 

 

仕方ないと覚悟中途半端に引いていくと

川の水かさは膝辺りに来て、

大丈夫かなと思っているうちに太股迄来て

あれあれ思ううちにズボッ

胸まではまってしまった。

あっ、パンツが濡れた!

すると川の流れが急になり、

頼れるのは縄1本

足元の砂利がぐじゃぐじゃになっていて、

そう、我々はその日の最後の順だったのだ、

皆必至である、

すると目の前の人がこけた。

すぐに立ち上がったが、

綱にすがろうにも綱はぐらぐらしていて

却ってこけそうになる。

一瞬手を離した、

するとすっと足が浮き、身体は流れの下流方向に向き

少し流れた。

不思議と恐怖感はない、

あれ、このまま流されるのかなと思っていたら、

襟首をつかまれた。

ぐっと引っ張られると、

親猫に首根っこを噛まれた子猫の感じだろうか、

あっ、面白い、と思っていたら

「立てますか」と怒鳴られた。

一瞬どうやって立てられるのだろうと思ってしまう。

まるで死海に浮かんだ時のように。

 

早々と岸に上がる。

 

しかし川曳きはこれで終わらない。

頭のなかは、パンツを履き替えることで一杯・・・

 

 

71歳になった。

 

60歳を越えた辺りから、

年を取ったらどんな人形を遣うのだろうかと

考えるようになった。

枯れた芸

などという言葉を聞いたことがあり、

「枯れる」ことに興味を持った。

 

そんな話を先月浅草二十一世紀に出演したとき

めだちけん一さんと真木淳さんに話したら

「枯れちゃだめだよ、芸人は枯れちゃお終いだ」

と、強く否定された。

 

面白いね。

 

まず、私が芸人と言われたこと。

意識したことが無かったので、

そうなんだ、私は芸人だったんだ

と、初めて自覚した。

 

そして「枯れる」ことについて。

自然と年を取っていったときに

観た人が「枯れた」と感じることであり、

枯れようとしてできるようなことではないだろう。

ただ、どうなんだろうか、

枯れたと思われたらお終いなのだろうか。

 

それを確かめるためにも

人形を遣い続けなければならないようだ。