人のココロというモノは、海のようなモノだと思います。

海面近くでは陽の光が射し込んで、波の音やたくさんの生き物が泳いでいる活気に満ちた世界。
だけど、深く潜るにつれて陽の光は弱くなり、生き物の姿もまばらになります。
深海に至っては、全く光がない暗黒の世界。
音もなく、光もなく、生きるモノは目立たなく、時間が止まったかのよう。

ココロ…
巷ではよく『運勢のバイオリズム』と言う言葉が聞かれます。
良いときもあれば悪いときもある、人間には波形のような浮き沈みサイクルがあるという。
ココロの世界もこのサイクルがあると思います。
先ほど書いた『海のような世界』の中で。

活力にみなぎり、毎日が充実しているときはサイクルの上のあたり、海面近くにいるわけですから、陽の光があたり音もよく聞こえ、ウキウキした気分になります。
落ち込んだときは、陽の光が弱く音も聞こえづらい、やや深い海。
上を見ると僅かに光が揺らめいているから必死に浮上しようと頑張る。
その光の向こうに、手に入れたい希望や願望が見えていて、浮上すれば手に入れられると思わせてくれるから。
ココロのサイクルは、この浮き沈み。

ココロに深い闇(病み)を持っている人達の世界は、浮上する事が困難な深海にいます。
それも、海溝の底。
陽の光どころか、音も、何もなく、自分がドコにいてドッチを向いているのかさえわからない。
助けを求めようとしても海溝の底からでは声も届かず、助けようと海上から叫んでも海溝の底には聞こえない。
『ずっと浮上してこない!こりゃ大変だ!』と潜水艇を使って潜り、無事に救助されれば浮上出来るけど、そうならない人も多くいます。

暗闇であることに慣れ、光を求めることを諦める。
嫌な言葉を聞きたくないから、音のない世界を受け入れる。
誰かに会って傷つけられたくないから、誰もいない海溝の底が居心地がいい。
浮上できるかわからないし、浮上してからどのように振る舞えばいいかわからない。
そもそも、自分なんかが浮上していいのだろうか?
その資格があるのだろうか?
あぁ、考えるだけで疲れる…

などと思ってしまって、理不尽な世界である海溝の底から動くことを拒絶してしまうんですよね。

でも、一つだけ救いなのは、ココロは浮き沈みのあるバイオリズムだと言うところです。
良いときもあれば悪いときもある、すなわち、悪いときもあれば必ず良いときも訪れる。
たとえ、日本海溝だのチャレンジャー海溝だの底まで行ったら、それよりも深く沈むことはないんですよね。
少しずつでもゆっくりでも、後は自然に浮上してくるもんなんです。
また沈むかもしれないけど、また自然に浮かんできます。
だって、ココロのバイオリズムがそうなっているんですから。

だから、治そうと思わなくなって、全てを諦めて、投げやりになってしまっている私、いつかは『昔はそんなこともあったな(笑)』と、笑える日がいつか来るからね。




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そこは
色が乏しい、けど、綺麗な場所でした。


透明な草が生い茂る草原、いつも決まって同じ場所に降り立つから、立っているところだけは土が見えています。
真っ青な空から風が吹き草を撫でると、きらきらと輝きました。

草原の中を、小川が流れています。
川幅たった80センチあまりの白銀の小川。
唯一の煉瓦と丸太の太鼓橋を渡ると、真っ黒い枯れた松の木が一本、根本の盛り土には彼の隠れ家がありました。

小川の上流は白銀の池があって、そこには池の主の仙人クジラが昼寝をしています。

池の畔の折れた千年樹を通り過ぎ、対岸まで行くと、漆黒の樹海が広がっています。
そこから向こうには、誰も行ったことがありません。

引き返して、降り立った元の場所へ。
透明な草原の中に小高い丘があって、その頂にだけ雲が浮かんでいます。
小さい小さい雲。
だけど、その雲の下は決して止むことのない雨が降っています。
持ち主がわからない、白いブランコと白いシーソーが、決して止むことのない雨に打たれ続けていました。

丘を横切り、急な斜面を下ると、風景は一変します。
辺り一面に広がる白い砂漠。
白銀の小川から注がれた水が、白い砂となり砂漠を作っています。
砂の粒がとても細かいので、歩くのは困難です。
歩いて砂漠を渡るには、私でも一週間はかかってしまいます。

一週間かけて歩いても、その先は目のくらむような急勾配の無機質な山脈がそびえ立っていて、誰も山脈の向こうには行ったことがありません。

昼は12時間、夜は12時間。
夕方や朝というモノはないんです。
太陽もありません。
星は綺麗に出るけど、空に開けられた小さな穴から漏れた光なので、毎夜見る星はいつも同じなんです。


ここの住人は
1人と4匹と1台
それと、たまに出てくる巨大な金平糖がたくさん。

ここは
白銀の世界。





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私は春が好きです。
四季の中で、一番好きです。
性格が生ぬるいせいなのか、寒すぎず暑すぎず、どっちつかずが楽で良いんです。


いつの頃からなのか、桜の花を見るためだけに一年を過ごしています。
たぶん、桜の花みたいな生き方に憧れているんだと思います。

暑い夏、凍えるような真冬を耐え忍んで、春にようやく蕾が膨れ、五分咲き八分咲きと人々のココロを高揚させていき、満開となり、桜自身と周囲の皆に存在意義と存在理由を示す。
一年間の思いと想いを花びらに託して、わずか一週間で舞い散る。
はらりはらりと。
樹の中で生き生きと咲き誇っていた桜の花は、地で桜の絨毯になり、一陣の風が吹けば散ったはずの花びらに再び命が宿って空を舞う。
そして、花の役目を終える。

憧れ。
自分にはないもの。

私が住んでいるところでは、桜が咲くのはまだ先です。
もし、私が生涯最後に見る光景を選択できるのならば、大きな大きな桜の木の、散りゆく花びらを見ながら逝きたいです。



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