検証シリーズ⑧ 「前田日明による、長州力“顔面蹴撃事件”が起きた背景を探る」 | DaIARY of A MADMAN

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毎日、ROCKを聴きながらプロレスと格闘技のことばかり考えています。


年末にリクエストがあったので、今回は「新日本プロレスの現在・過去・未来」を分断させてしまった、この“事件”に迫ってみたい。

当時の背景を探る上で、長州力と前田日明の出自を避けては通れない。つまり「在日韓国人」というキーワードだ。長州は「二世」、前田は「三世」である。

私自身は在日の友人もいるせいか、さほど抵抗はないのだが、昭和の時代、プロレスラーに限らず芸能人やスポーツ選手などの“有名人”が出自を明かすことは少なかった。(それは現在でも同様なのかもしれないが)

それだけに、特に在日は「同朋意識」が強く、星野勘太郎(同じく在日)が前田をことさら可愛がっていたのは、「喧嘩になっても一歩も引かない性格を気に入っていた」からだけではなかったはずだ。

だが、不思議なことに、長州と前田については、この“顔面蹴撃事件”以前でも、親しいという話は聞いたことがない。本来なら、それこそ兄弟のような関係になっていてもおかしくないのにそうならなかったのは、根本的に性格が合わなかったからだと思われる。

この“事件”を語るには、そういった「前提」を理解していなければならない。

よく知られているように、「ボクシングのヘビー級チャンピオンにしてやる」と半ば騙される形で新日本プロレスに入門した前田だったが、自分をスカウトしてくれた佐山聡、生涯の師であり父親代わりのような存在の藤原喜明と出会ったことで、純粋にプロレスラーとして生きていくことを決意するようになる。

若手時代は“クラッシャー”と呼ばれ、トンパチとして一部で有名だった前田が表舞台に登場してきたのは1983年。
海外武者修行で行ったイギリスで大活躍し、ヨーロッパヘビー級王者として「第1回IWGP シリーズ」に凱旋帰国した前田は、帰国前に師事したカール・ゴッチの命を受け、当時のトップ外国人の一人、ポール・オーンドーフを「ダブルアーム・スープレックス・ホールド」で秒殺し、一気に注目を浴びる。

“スパークリング・フラッシュ”のキャッチフレーズと190cmを超す長身に甘いマスクで一躍、「将来のエース候補」と呼ばれるまでに成長を果たすものの、俗に言う「クーデター事件」の混乱から生じた「新団体構想」に巻き込まれ、「旧(第1次)UWF」へ移籍することになる。

その間、わずか1年。

初代タイガーマスクの活動期間が「ほんの2年4ヶ月」とよく言われるが、「新日本プロレス将来のエース」と評された“スパークリング・フラッシュ”時代の前田明(当時は「日」は付いていなかった)は凱旋帰国第1戦(1983年4月21日)から「旧UWF」の旗揚げ戦(1984年4月11日)までの1年弱しか活動していなかったのだ。

あまり語られることが少ないように思うが、これはその後の前田の考え方・価値観に大きく影響しているような気がする。

「旧UWF」では佐山(当時はスーパー・タイガー)、藤原、“弟分”の高田信彦(当時)、山崎一夫、木戸修らと、後に「UWFスタイル」と呼ばれる革新的なファイトスタイルを模索したものの、首都圏以外では興行的に成功を収めることができず、また方向性を巡って佐山と前田が対立(と言うより、佐山が孤立)し、団体は崩壊。古巣の新日本プロレスへ「業務提携」という形で復帰することになる。

関節技よりも、「ロックアップをせずにキックから始まる展開」に嫌悪感を抱く選手が多かった中、前述の星野や、「プロはどういう攻撃でも受けるもの」という信条を持つ藤波辰巳(当時)と越中詩郎らとの激闘を経たことで信頼関係らしきものが芽生え始める。

さらに一部の「デキる外国人レスラー」の奥深さに触れたことで、例えば「ロープには飛ばない」「場外乱闘はやらない」といった、従来のプロレスを否定していた頑なな気持ちもほぐれてくるようになった。

1987年4月、少しずつ双方が歩み寄り始め、試合も噛み合い始めてきた頃、突然、リング上の主役を奪うかのように現れたのが、長州力率いる「ジャパンプロレス勢(+スーパー・ストロング・マシーン&ヒロ斉藤)」だ。

それまでも「アンドレ・ザ・ジャイアントとのセメントマッチ事件」や、ドン・ナカヤ・ニールセンとの試合における「相手のデータを何一つ事前にもらえなかった」といった会社批判とも受け取れる発言、そして何よりアントニオ猪木を公然と批判し、シングルでの対戦を迫るなど、新日本にとって「扱いづらい」前田は、次第にマッチメイクの中心から外れ始める。

それどころか、「業務提携」として参戦した「旧UWF勢」に個別での契約を求めてきたのだ。これは完全に「前田と、他のレスラーとの分断作戦」に他ならない。

おそらく、長州らが戻ってきてからの前田は、相当ストレスを抱えていたことと思う。

そんな状況下、87年6月に勃発し、あっという間に終息した「新旧世代闘争」が2人の関係を決定的に悪化させた。

猪木とマサ斎藤が初代IWGP王座を賭けて闘った(それまでは「G1」のようなグランプリ。この時に初めてタイトルになったはず)試合後、長州がリングに駆け上がり、藤波と前田に「今しかないぞ、今こそ新旧交代だ。お前らは噛み付かないのか!」と呼びかけ、そこになぜか木村健悟やマシン、小林邦明なども出てきてしまった、伝説の「イベント」・・・もとい「抗争」だ。

この時のことはウロ覚えながら、やたらいきり立つ健悟先生と、どこかシラケた顔をして所在なさげにしていた前田のギャップにとまどった記憶がある。同じく伝説としか言いようがない「ギブアップまで待てない!」時代だったことも、記憶を曖昧にさせた一因かもしれない。
(そう言えば、主題歌はチャゲ&飛鳥の「狂想曲(ラプソディ)」だったなぁ)

この時、「世代闘争とかごちゃごちゃ言わんと、誰が一番強いか決めたらええんや」との前田の発言が残されているが(滑舌が悪すぎて、テレビでは何を言っているのか聞き取れなかった)、改めてこの発言を見て、何か感じないだろうか。

私には、長州が音頭を取って「これから始めようとしている世代闘争」を真っ向から否定しているようにしか見えない。この発言一つを取っても、当時の前田の置かれていた状況と長州に対する感情が分かる気がするのだ。

果たして6月12日の試合後から始まった「世代闘争」は、10月19日の静岡県富士市「猪木&山田恵一 vs 藤波&長州」をもって終焉を迎えた。“スパークリング・フラッシュ”よりもさらに短い、わずか4ヶ月間だ。

昨年末、CSの「ワールドプロレスリングクラシックス」でこの試合が放送されたので、久しぶりに映像で観たが、当時もリアルタイム(もちろんテレビ)で観ていた。

この試合、猪木のパートナーは「X」とされており、当時まだ若手で素顔の山田が入場してきたことで、藤波と長州は露骨に不快感を示す。それも無理からぬ話で、今ならさしずめ棚橋のパートナーに小松洋平が抜擢され、中邑真輔&オカダ・カズチカとメインで闘うようなものだ。

当然ながら、藤波も長州も大張り切りの山田を相手にせず、わずか1分半でピンフォールしてしまう。会場が騒然となる中、猪木は観念したかのように(実は最初から計算していたと思う)、「1対2」での試合再開を決断する。

「世代闘争」では、どちらかと言えば「ニューリーダー」と呼ばれた藤波&長州側の支持の方が高かったものの、こういう展開では必然的に孤軍奮闘する猪木に声援が集まることになる。

結果、藤波と長州はお互いに「自分が猪木の首を取る」とムキになり、藤波のカバーを長州がカットすれば、長州のさそり固めを藤波がカットする。いつしか猪木そっちのけで掴み合いに発展し、健悟先生がここでも登場して2人を分けるが、藤波と長州の共闘は完全に終焉を迎えてしまった。

この時に長州が叫んだ名言が、「俺が先にトップを走ってやる!」だ。

表面的には、まさに猪木の策略にハマった格好だが、前田の立場からすれば、そうは考えまい。

「自分はやりたくなかったのに巻き込まれ、よく分からないうちに勝手に終わってしまった」

この直後に、「猪木と斎藤の巌流島決戦」の録画中継と、「長州 vs 藤波」のシングル(生放送だったはず)がコラボで放送されたことを考えれば、思ったほどには盛り上がらない「世代闘争」を続けるよりも、「藤波 vs 長州の名勝負数え歌」の再現をやった方がいいとなったんだろうなと想像する方が自然だ。

そんな不満が、「長州は“言うだけ番長”」という言葉となって、外に出たんだと思う。

前置きが長くなったが、この時に芽生えた不信感が、あの“顔面蹴撃事件”につながった、というのが、これまでの「定説」だと思う。

もちろん、それは間違っていないと思うが、
私はあえて、否定したい。

前田が長州に抱く最大の不満は別のところにあったはずだ。

有名な話では、まだ“スパークリング・フラッシュ”時代の前田が、新日正規軍の一員として長州ら「維新軍(ジャパンプロレス勢)」と「4対4の綱引きマッチ」を行った際の因縁を挙げる人も多い。

ご存知ない向きに説明すると、「4対4の綱引きマッチ」とは、4本のロープをリング上に配し、新日正規軍(猪木&坂口征二&藤波&前田)と維新軍(長州&アニマル浜口&キラー・カーン&谷津嘉章)がリングを挟んでロープを引き合い、同じロープを掴んだもの同士が対戦するというもの。

この抽選の際、猪木との対戦を熱望しながらも前田と対戦することに決まった長州は「冗談じゃない!」とばかりにロープを叩きつけ、不機嫌な表情で控え室に戻った。

完全に見下した態度に憤慨した前田だったが、
試合ではさらに悲惨な状況になってしまう。

ヨーロッパヘビー級王者として、藤波も長州も成し得なかった「IWGP本戦」への出場を果たした前田だったが、やはりまだ若手のイメージは抜けていない。長州はまったく前田のいいところを出させず、一方的に攻め続ける。さそり固めもそれまで以上にえげつなく、完全に腰を下ろして背骨を折らんばかりだった。

当時は前歯がなく、欠けた歯を食いしばって耐え続けた前田だったが、最後までギブアップはしなかったものの力尽きて突っ伏してしまう。見かねたミスター高橋レフリーが試合をストップし、前田は凱旋帰国以来、初めてと言っていいほどの惨敗を喫してしまった。

試合後も、特にねぎらうこともなく(当時は「敵対」していたので当然と言えば当然だが、相手は後輩だ)、さっさとリングを降りてしまう。

この時の態度をきっかけに、前田は長州を毛嫌いするようになったという説を見たことがある。

それも間違いではないだろう。

最近でも「俺は、怨みは忘れないどころか、年々強くなるんだ」と言明する前田だから、この時のことを忘れているとは思えない。

だが、前田の性格を考えるに、そんなことで“顔面蹴撃事件”のようなことを起こすとは思えないのだ。

前田の性格。
一言でいえば、「典型的な親分気質」である。

思い出して欲しい。

「第1次UWF」が崩壊した原因とその後の対応、「新生UWF」の成り立ちと解散後の状況を考えると、前田は常に「周囲の人間も一緒に」という発想で動いていた。

佐山との対立も、「試合数を減少して1ヶ月1回では、若手レスラーやフロントが食えない」ということが原因だったし、高田と2人だけ全日本プロレスに誘われた時にも「全員一緒でなければ行きません」だった。

「新生UWF」の時も、フロントが私腹を肥やしていると(勘違いして)対立し、リングスでも、「HERO’S」でも、選手の立場を考えてスポンサーやプロデューサー的な立場の人間と対立していた。

そんな前田が、私怨だけで(いかに長州とはいえ)対戦相手を怪我させるようなことをするとは思えない。

では、なぜそんな行動に走ったか。
何が前田の逆鱗に触れたのか。

長州らが新日本に復帰した直後、1つの「事件」が起きたことをご存知の方も多いと思う。


「橋本真也リンチ事件」

1987年6月3日、福岡・西日本総合展示場で行われた「橋本 vs ヒロ斉藤」の一戦。まだデビュー3年目の橋本は、先輩であるヒロの攻撃をまったく受けることなくキックを放ち続け、手の甲を骨折させてしまう。

一説には荒川真に焚き付けられたとも言われるが、試合後、維新軍の控え室に呼び出された橋本は、長州とマサさんにリンチされてしまう。

橋本はそもそも高田に可愛がられており、本来なら高田と一緒に旧UWFに行っているはずだった。それを、本当かどうかは今となっては不明だが、「寝坊した」ことで集合時間に間に合わず、うやむやになってしまったという逸話がある。

また、橋本があの体型ながらキック主体のファイトスタイルにこだわったのは、前田に憧れていたからだというのも、有名な話。

橋本は直接的ではないものの、心情的にはかなり前田に近い存在だったのだ。

長州らが新日本にUターンするまでは、スポーツライクなプロレスを目指していた前田にとって、「気に入らない若手にヤキを入れる」という行為は許せないものだっただろう。まして、それが自分にとって可愛い後輩だったら、なおさらだ。

「機会があったら、正々堂々と制裁してやる」

そう考えていたからこそ、「世代闘争」勃発時にも、どこか長州に対して冷めた態度で接していたし、共闘路線が崩れた途端に批判の矛先を向けたのではないか。

よく考えて欲しい。
「世代闘争」がポシャったのは、長州と藤波の連帯責任のはずだ。それなのに前田が批判したのは長州ただ1人。最初から長州をターゲットにしていたのは明らかだと思う。

ただ、「目にもの見せてくれる」とは思っただろうが、「怪我させてやる」とまで考えていたかは疑問だ。好意的に考えれば、あの蹴り自体、目を狙ったと言うよりは顔面全体を狙ったもので、長州が顔を背けたから怪我につながっただけ。

「死角である後ろから蹴ったのは卑怯だ」と言われたが、今でもそんな行為は(ラリアットであれ、キックであれ、ボマイェであれ)いくらでもある。怪我をさせたわけではないが、控え室で寄ってたかってリンチする行為と比べ、どっちが「プロレス道にもとる」かは、火を見るより明らか。

なぜ、あんなことを言われなければならないのか、本人はもとより、おそらく多くのファンも「なぜ?」と思ったはずだ。


あくまでも、これは私見に過ぎないことを最初に断っておく。だが、私は前田が長州に「仕掛け」たのは、橋本へのリンチに不満を感じたことがきっかけだと考えている。若い頃に「潰された」ことや、「世代闘争の中途半端な終結」などは第三者の勝手な想像、もしくは二次的要因に過ぎない。

「うちの若い衆が世話になったな」

新日本勢と馴染み始めた時期だったし、新日本勢ではやれないなら「自分がやってやる」。これは、まさに佐山聡(スーパー・タイガー)と「ああいう試合」をやった構図と一緒ではないか。

やってもいない「金的攻撃」を指摘されて反則を取られ、ちょっと強めだったが普通に蹴っただけなのに「プロレス道にもとる」と言われ、「無期限出場停止」を食らう。

前田の「プロレス人生の前半」はそんなことばかりだった。

だから「信頼できる仲間」を求め、
だから「筋を通すこと」を求め、
だから、いつでも胸を張って正々堂々としているのだ。

頬を指差し、「殴ってみろよ」と挑発する前田の写真を『GONG』等で観たが、あんな姿は私の知る限り、後にも先にもあの時限りだったはず。本来の前田はそんなファイトをする男ではない
(プロレス入り前の、「喧嘩三昧」だった高校時代は別)。

「誰かのために」

これこそが、前田の動く理由、モチベーションになっていたと私は信じている。そして、そういう時の前田が「一番強い」ことも。


結局、新日本は「集客につながる長州」を取り、
問題児で「扱いづらい前田」を追放することになる。

どちらが正解だったという問題ではない。

長州が残ったから、90年代の大繁栄があったのだろうし、この時に前田が退団したから「UWF」が、総合格闘技が誕生したのかもしれない。
そういう意味では、これで良かったのだろう。

歴史とはそういうものだ。







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