アラフィフヨーガ講師ダイスケ。


身体が思うようにならない、

おじさん達へ捧げる。



もし、あなたが今、何かしらの理由で

身体が不自由だったとしても、

ヨーガはできる。


多くの人が勘違いしているが、

ポーズをおこなうことがヨーガではない。


ポーズはヨーガを深めるひとつの手段だ。


ポーズをおこなうことで、

無意識に緊張していた筋肉を緩め、

血行やリンパの巡りを良くして、

気の巡りを良くすることが、ひとつ。


からだの感覚や呼吸に意識を向けることで、

無意識的自動思考を止め、

心を寂静させることが、ひとつ。


気の巡りの良くなったからだと、

寂静した心の状態を保ち、

坐って瞑想をすることで、

心の働きを完全に止めることがヨーガだ。



ポーズはあくまでもプロセスであり、

ポーズを取ること自体もまた、

動く瞑想でもある。


歩けないのなら、椅子に座っていてもいい。

起きれないのなら、横になったままでいい。



たとえからだが自由に動かなくても、

からだや呼吸に意識を向けること

はできるはずだ。


目を閉じて、身体の感覚や

呼吸に意識の光を照らす。


身体は意識を向けるだけで、

整う方向へ向かっていく。


試してみてほしい。


手のひら、手指に意識を向ける。


だんだん、暖かくなってくるはずだ。

もっと微細に意識を向ければ、

ジンジンしたりピリピリしたり、

ドクドクと指先に脈を打つ感覚が

感じられるかもしれない。


梅干しやレモンを想像しただけで、

唾液が出てくるように、

生理反応が起こる。



背骨に意識を向ける。

背すじが自然と伸びるのを感じるはずだ。



呼吸に意識を向ける。

深めようとしなくていい。


高級な美味しい料理を食べるとき

のように、繊細に、丁寧に味わう。


吸う息が鼻先を抜けて、

のどを通り、

胸やお腹に広がる感覚。


吐く息が、胸、のどを昇り、

鼻先を抜けて出ていく感覚。


これだけで、無意識時の呼吸よりも、

格段に深くなっている。


無意識時の呼吸は、

代謝性呼吸といって、

脳幹(爬虫類脳)から「息を吸え」と命令が下り、

酸素を取り込み、

生命活動を維持するための呼吸だ。


意識的な呼吸は随意呼吸といって、

大脳新皮質(人間脳)から、

「息を吐け」と命令が下り、

自然と腹式呼吸になる。


余分な二酸化炭素、老廃物、毒素などは

もちろん、身体の緊張やストレスも吐き出し、

浄化とリラックスのための呼吸になる。


ヨーガでは、繊細に息を吸うことで、

酸素だけではなく、プラーナという

生命エネルギーを取り込むとされる。


たとえポーズをやらなくても、

身体や呼吸に意識の光を照らすだけで、

自然と調っていくのだ。


現代の量子物理学では、

素粒子は人間か観測すると波動から、

物質に変わるとわかっている。


もしかしたら、何かそれと関係が

あるのかもしれない。



心の苦しみの原因となる自動思考。

考えるのをやめようとすることもまた、

思考だ。


この思考のループを止める方法もまた、

意識を向けることだ。


自動的に湧き上がる思考を観測して

みてほしい。


さて、次にどんな思考が浮かんでくるかな、

と意識的でいると、

なんと思考は姿を現さない。


そこから注意が逸れれば、

再び思考はぐるぐると回り始める。


意識の光の前では、

思考は力を失うのだ。


思考によって現れる感情にも

意識の光を照らす。


怒り、悲しみ、焦り、寂しさなど。

その感情に気づき、

ただ光を照らすだけで、

自然と感情は静まっていく。


なぜなら、感情を持続させ、

増幅させるのもまた、

自動思考だからである。


感情が強烈であれば、

時間はかかるかもしれないが、

必ず静まる。


もっといえば、

感情によって変化した呼吸や

身体感覚に意識を向けるのだ。


先に述べたように、

呼吸や身体に意識を向ければ、

それらは自然と調っていく

ことで、感情も静まる。


ヨーガはポーズではない。


身体の緊張を緩め、

心を寂静し、

感覚に意識を向け、

内なる自己とつながり、

本質へと回帰してゆくのが、

ヨーガの真髄だ。


ポーズはそのために役立つ手段では

あるので、身体が動くのなら、

しっかりやったほうがいい。


だがもし今、身体が動かないのであれば、

呼吸や感覚に意識を向けるだけでいい。


それだけで、呼吸は深まり、

身体は緩まり、心は寂静するだろう。


僕たちは身体ではない。

思考や感情でもない。

ましてや名前や立場、肩書きでもない。


僕たちの本質は、

ただ自分自身を照らす

穢れなき意識の光。


僕たちは、

純粋意識の光であり、

生命そのものなのだ。