【文京区】音羽川(水窪川)の消失はいつ?③
今回は通称コクリコ坂から吹上稻荷までの旧音羽川散歩の続き。コクリコ坂を渡ると、右側の広大な敷地はお茶の水女子大学。ここは江戸時代は安藤長門守の下屋敷。明治になると陸軍馬病院となり大正、昭和戦中に掛けて陸軍兵器庫として利用されていた。その為か、関東大震災の折り、この辺りは武器庫の引火によって火災被害が拡大している。音羽川そばの一角にその名残だろうか、当時の面影らしきものが残されていた。用途は全く解らないが、かなり古い感じのもの。歩を進めていく。この辺りからいかにも川でしたといったカーブを描きながら細い道が続く。古地図を見ると、この先からマンションの敷地内に入り、護国寺前の不忍通りにぶつかる。写真、道を渡って正面の細い道が音羽川の続きとなっている。道に入ると、左側が豊島岡墓地の緑が鬱蒼と茂っている。道幅も停車している車を見れば解るが車一台がやっとの道。この道は今までの川の流れのような緩やかなカーブではなく、クランクのようにカクカクと曲がっている感じ。そして、この先が今回のゴール地点である吹上稻荷神社。この神社は先日調べていた「東京名所圖會 小石川區之部(明治39~40年)」にも出ていたがそこではこう記されている。-----------------------------------------------------------------------吹上稻荷神は。大塚仲町一三番地に在り。入口に石の鳥居あり。次に神樂殿あり。正面には神殿にて。素木造り。右の格子のみ赤色に塗りあり。前に石狐双對す。寶暦壬午十二歳二日吉日と刻せり。按るに吹上とは此邉の小名なり。嘉永七年の江戸切繪圖を檢するに。御箪笥町の先。成瀬周防守邸前。即ち今の大塚窪町の大通るに。小石川大塚吹上のしるしあり。且つ松平播磨守邸前の坂を吹上坂と唱ふるを以て之を證明するを得べし。智香寺境内に正一位吹上稻荷大明神ありたること。小石川志料に見えたれば。明治以降ここに移轉せしにや。--------------------------------------------------------------------------この「東京名所圖會 小石川區之部(明治39~40年)」時代には大塚仲町一三番地(現在の大塚四丁目)にあった。嘉永七年の地図では、大塚窪町(現在の大塚三丁目)にあり、松平邸の前の坂を吹上坂と呼んでいたのが名前の由来らしい。そして、この本の五年後の明治45年に現在の大塚五丁目に移転した。音羽川の九丁目が私娼窟だったという話しもこの東京名所圖會に記されている。五代将軍綱吉が護国寺の建立を命じ、1600年代後期より音羽九丁目界隈の茶屋で私娼を置き繁盛していたが、8代将軍吉宗の享保の時代に一旦排斥された。その後、また復活して1830年の水野忠邦の天保の改革の辺りまで存在していた。この私娼を置いた茶屋が並んでいたのが音羽九丁目あたり。そして音羽川に沿って音羽四丁目から七丁目あたりが紙漉きとして、所謂、製紙業者が音羽川を利用していたらしい。