『当機(とうき)』
「当機」というのは、まさにそのとき、そのものずばり、間髪を入れないという意味です。
禅のほうでは、師匠が弟子を育てるとき、弟子のいろいろな答えに対して、その答えが終わるか終わらないかのうちに、パッと機をとらえて即断を下す、それを「当機」といいます。
もっと広く考えれば、私たちの日常にはチャンス(機)がいっぱい転がっています。しかし大多数の人は、そのせっかくのチャンスに気づかずに、みすみす逃してしまうことが多い。それはどうしてかと言いますと、注意が散漫で、ぼんやりしているからです。たとえばお茶会に招かれたとします。しかしどんなに亭主が心をこめてそのお茶会を準備し、お道具をそろえたとしても、お客にそれを感じとる能力といいますか、心がまえができていなければ、そのお茶会は失敗に終わってしまいます。一つのお茶会という格好の機会を生かすことができない。まさにそのとき(当機)、一つの大きなチャンスがあるのに、それを逃してしまう。それもやはり、常々、物事の本質を瞬間的にパッと正確に理解する力や感受性養っておかないから、そうなるのです。
よく、名高い禅僧が、竹の鳴る音を聞いたり、葉の落ちるさまを見て突然悟りを開くというようなエピソードがありますが、それもこの「当機」に大いに関係があります。つまり、毎日毎日必死の修行を積み重ねているからこそ、ちょっとしたヒントできっかけをつかむことができるのです。そうしたひたむきな努力の裏打ちがなければ、どんなにめぐまれたチャンスに巡り合っても、そのチャンスを生かすことはできません。ぼんやりした人生を送っている人間を、いくらたたいてもどなっても、どうすることもできないのです。
やはり常々の修練を積み重ね、機が熟しているとき、まさにそのとき「当機」に巡り合って、いっぺんに目の前が開ける、ということだと思います。
チャンスというものは、人から与えられるものではありません。「これがチャンスだよ」といって与えられても、その人にそれを生かせるだけの素地や能力がなければ何の意味もないのです。やはりチャンスというのは、自分でつかみとるものです。瞬時にして逃していってしまうチャンスを、間髪を入れずにパッとつかんで、自分のものにしてしまう。そのためには、日常の修練、努力がなによりもたいせつです。その努力を怠って、棚ぼた式にチャンスがくるのを待っているだけでは、けっして向上は望めないのです。
『碧巖録(へきがんろく)』より
卒業式のあと、クラスにもどり、最後のホームルーム。
たくさんの記念品やら表彰状やら・・ほとんどの子が「3年間皆勤賞」「3年間精勤賞」「1年間皆勤賞」・・
3年間提出した作文やら・・ 成績表やら・・ 配り物もたくさん
そんななか、書道家の担任の先生が、子供たち一人ひとりに贈ってくださった言葉。
上の語意もつけて、芸術を追求してきた子供たちに先生の熱い思いも語ってくれました。
チャンスについては、私もよく話をしますが、「当機」といわれるとまた重みが増しますね。禅の言葉だそうです。
それぞれの芸術を追求していくなかで、芯になる部分は同じなんですよねぇ
親が言えばうっとおしがられる話も、先生の話には、みんな真剣なきらきらした目で耳を傾けていました
芸術を通して、人生の勉強をしている子供たち。
担任の先生というより 「お師匠さん」 なのかも知れないなぁ~ と思ってしまった瞬間でした
一緒に写しているのは、クラス全員の似顔絵バンダナ
吹奏楽系のメッセージソング「窓の外には」を書道系の子が書いてくれて、美術系の子たちが全員の似顔絵を描きました。それを保護者の一人がバンダナにプリントしてプレゼントしてくれました。
3つの系に分かれていますが、とっても仲のいいクラスだと聞いていました
芸術クラスの集大成ですねぇ~
本当に心のこもった贈り物です。
そんなこんなで卒業式も無事に終わり・・
今日も練習をしに学校に行った息子。。 いったいいつまで行くんだ~
この努力と修練が身になるんですよね