形式科学などが存在していることの要請と実証できない知見の仕分けなど

 

ヒトは形式科学の範疇に含まれる自然言語と数学を発見(もしくは発明)しブラッシュアップしてきた。

数学にせよ自然言語にせよ経験から帰納して構築した体系(名前空間も含む)はそれによって模擬しようとする(構築時点の)現実世界や手続きより「なぜか」冗長的であった。(何かの発想やひらめきで数学や言葉を思いついた時点ですでにその数学や言葉がその時までにひらめいた人自身でも想像が及んでいない世界や手続きの側面を描き出せる余地を「なぜか」備えてしまっていた)

つまり何かの成功体験からある時点の数学や自然言語を構成した場合、その構成された体系は人類がまだ未体験な部分の現実世界や手続きまでも「いっしょに」に記述可能な状態にあったことが幾つかのケースで確認された。

形式科学におけるこの不思議な状態こそが数式をいじって理論物理学の新仮説を探索せしめたり、未経験領域に対する言葉遊びを実行して途方もない想像や空想を描き出すことを可能にした。

人類にとっての「正解」は経験による実証を伴う科学的裏付けがある知見のみである。それゆえに人類にとっての「真実」は実証を伴う自然科学的知見のみである。

それ以外(実証を伴わない知見)は仮説である。(たとえどんなに荘厳で相互に連関があって美しかったとしても)

この立場で言えば何らかの宗教の教義もある時点において荘厳な想像力を発揮できるだけの卓越した能力を持つ天才によって「想像された」創造物という見解を持つことも可能であるかもしれない。(宗教はセンシティブなテーマなので俺ごときでは断定はできない)

もちろん哲学に関しても実証を伴っていない時点では壮大なフィクションと捉えるしかない立場もあるかもしれない。

俺の主張には下記のような非論理的な前提がある。

・世界というものが存在していることを前提としている

・形式科学の範疇に含まれる対象が存在していることを前提してる

・経験だけを唯一の実証の手段であると前提している

・超越的な存在を認めていない

・知りえないものを語ることを無意味であるとして放棄している

・人智とは全く別のところで世界や形式科学が対象とする「模型空間」が「存在している」ことを要請している

・進化論を要請している

・「進化」の結果としてヒトの脳に世界や手続きを記述しうる基底となるパーツが一式網羅的に備わっていることを前提にしている。