こんな私が教師やっていること、特に子どものいる友人にはいい顔されていません。
まあ、私も親ならそう思います。
教師をやりたい人がやっていてほしいです。やりたくない人に、自分の子どもを受け持ってほしくありません。
ですが私は
迷いのない、自分は正しい、というオーラを発する教師が嫌いです。
それは若い頃の私でもあります。
ベテラン教師の威厳がほしくて、そんな振る舞いをしていました。
その方が、自分の思い通りに生徒をコントロールできるんですね。それを指導力と思っていたし、下手したら、それができている先生が評価されるのかもしれない。
気がつけば、私の前で萎縮する生徒がいたり、ちょっと注意しただけなのに、すごく叱られたかのような顔をする生徒がいたり、生徒との関係性にズレ感がありました。
「〜しなさい」
「〜すべき」
こんな語尾の使用も多かった気がします。
進学指導や生徒指導の場面では、とても便利な言葉だと思います。
「大学に行くべき」とか
「受験までにやるべきこと」とか
「親に感謝すべき」とか
「迷惑かけたら反省すべき」とか
そのために
「アレしなさい」
「コレしなさい」
大人が用意した価値観や道徳観があって、それを正当化するための導きというか、結局は生徒をコントロールするものなんじゃないだろうか。
多様な価値観の土壌にある教育であれば、こんな言い方はしないと思うのです。
で、話を戻すと、
ベテラン教師の威厳がほしかった私の中に、何が見えるかということ。
生徒に失敗したとこは見せたくない。
生徒にナメられたくない。
指導力がないと思われたくない。
使えないヤツと思われたくない。
という、恐れ。
からのぉ〜
そんな自分はダメー!と責め〜のぉ
私は完璧に授業ができる。
私は動じることなく対応できる。
私は有能で必要とされる。
という対抗価値観で
ダメじゃない自分作りに精を出し〜
周りにダメな教師がいたら
そいつを責め〜のぉ
すると
さらにダメな自分が許せなくなる💧
うわわっ
インチャの大量生産や〜!
インチャのモグラ叩きや〜!
で、結局のところ、
若い頃とそんなに変わっていないのかもしれない。
でもね、
ここに気づくことができた私は
とってもエライと思うのです。
ダメな自分を許さないこと
ダメな自分を許すこと
どっちも同じエネルギーを使うなら、後者に使いたい。
怒りを感じる相手がいたら
怒り続けることとではなく、その中に自分を見る訓練をしたい。
この意識が
本来の教育の目的を取り戻し
私たちの魂の目的を具現化する力になると信じて教師をやっています。
いつか「心」とか「魂」を扱う科目ができればいいのにな。