ふぃーりんぐ哲学。
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8:消しゴムの感覚。


消しゴムって凄い。さっき唐突にそう思った。 世界ってのは、元々真っ白なキャンパスでしょ。 その上で人間やら動物やら鳥やら魚やら人間やらが動き回って絵を描く訳。 ここで、人間以外の全ての存在は、自然の摂理のようなもので統一され、 制御されるから問題ない。彼らは常に一定の色の濃さと規定内の枠組みの 中で絵を描き続ける。自然の摂理ってのは要するに「画家」だよね。 「画家」が意志を持ってこんな絵を描きたい、って思うからそもそも絵は 完成に至る訳。だから本来筆自身が勝手に動き回って絵を完成させてしまう 事は予測外の外な訳。んで、その予測の外で好き勝手やってんのがつまり。 そう。「意志を持った筆」たる人間、って訳さ。 この人間はかなり曲者だよね。人間やってりゃ分かるっしょ、この気持ち。 「画家」の意志を無視して勝手に動き回って、勝手に絵を描いて、勝手に 色塗りたくって、筆自身が走りたい方向へ移動してる訳だ。 これらを「自由」の一言で済ませちゃうのは簡単。 でも「自由」の代償って実際は大きいでしょ。 森林伐採も温暖化現象も大気汚染も海水汚染も土壌汚染も砂漠化減少も。 みーんな「筆」が自由に、滅茶苦茶に、気ままに、動いた結果じゃん。 一度描いた絵は消せない。一度塗った色は消えない。 これって、極身近なレベルまで浸透しちゃってる「真理」だよね。 一度この世に生を受けたら、途中で自分自身は消せない。 消す行為は、世間一般には認められているとは到底思えない。 過去に何かやましい事があっても、その過去は消せない。 悲しい事は色濃く記憶に刻まれ、一時忘れる事はできても、消せない。 輪廻転生、なんて気楽に言うけど、死んでもいないのに分かる訳ない。 真っ白な紙渡されて、一回も間違わずに絵を描き切りなさい、って言われてる ようなもんだ。それは無理だって。 んで。消しゴムが凄い理由。恐らく人間が利用するモノの中で唯一 「能動的にモノを消す事ができるモノ」だから。消したい時に消せる。 これってさっきの真理に反してるよね。でも、消しゴムは確かに存在するし、 人間にはよく使われている確かなモノ。だから、凄い。って、感じた。

7:牛丼の感覚。

今日は一日だけ吉野家で牛丼が食えるそうで。

猫も杓子もギュードン、ギュードンって。バカみたい。

んで、俺も当然ごたぶんにもれず食いにいったさ。

だって好きなんだもの。バカで結構。それが11時半くらいかな。

そしたら既に長蛇の列ですよ。びっくり。

どんくらい長い蛇かっつーと、吉牛から50m離れたとこにマックがあって、

そこの店の入り口くらいまで列が到達してんの。

お前らどっちの客だよ、と。マックからすりゃ営業妨害じゃんか。

でもマックもマックでバカなわけ。

その列の客を引き込もうと努力もせずに店員どもはスマイル0円ご提供中。

店長は何やってんのか甚だ疑問ですよ。

どうせ列作ってる奴らなんて普段はほとんど吉野家なんか行かないくせに、

いやむしろ一人でメシ食うのがイヤだから普段は行けないくせに、

いざ「1年ぶり」「1日だけ」「牛丼再開」とかいう文字がマスコミ媒体に

踊りだした刹那蟻のようにわらわらと群がる主体性の欠けた木偶人形ども

ばっかなんだし、ちょっと声かけりゃ夢から醒めたようなアホ面下げて

ホイホイついてくるだろ。アホはなに食ったって一緒なわけだし。

アホはアホなわけだし。それをやらないマックは明らかに職務怠慢。

俺?もちろん並ぶのもバカらしいって思ったさ。

だからテリヤキバーガーのLLセット買って帰ったさ。

もちろんスマイルは0円。

だってマックも好きなんだもの。木偶人形で結構。アホで結構。

本当に好きならバカと言われようがアホといわれようがそれを貫き通せ、っ

てこと、言いたかっただけ。

6:傷の感覚。

傷つかずに生きる人間はいない。いたらソイツはよっぽど浮世離れしてるか、

現実から逃げているだけだろう。世の中は針の筵。歩けば当然傷がつく。
    
だから、その傷自体はしょうがない。ほっとくか、絆創膏貼るかしかない。

でも。

世の中、その傷にさらに辛子を塗りたくろうとする奴って、多くないか。

分かっててやってんのか、天然でやってんのか知らないけど。

例えば俺の場合は人付き合いが苦手。人多いところに行くと頭痛くなるから。

で中学の友達なんかがたまに「飲みに行こうぜ」なんて気軽に誘ってくる訳。

そいつは多分俺のことを思ってくれてるから誘ってくれるんだと思う。

それはすごくうれしい。うれしいんだけど、さ。

人嫌い、って時点ですでにそれは俺の中で小さくない傷になってるのさ。

何となく後ろめたい感じ。でも、何となくそのままほっときたい感じ。

そんな状態でそんな風に誘われると、傷を意識しちゃうでしょ。

傷って意識するとめっちゃ痛くなるでしょ。

それを「辛子を塗りたくる」って言ったのさ。

まぁ俺の性格が悪いんだけど。でも性格ってのはなかなか変えられんものさ。

俺はこの傷、ほっときたいんだけど。しがらみ、って奴がそれを許さない。

5:嘘の感覚。

なんか文字ばっかでつまんないんで今日から軽い感じで書く。

嘘。うそ、ウソ、lie。

人を騙すもの。人を傷つけるもの。人を欺くもの。人を悲しみに陥れるもの。

嘘にはネガティブなイメージがつきまとう。でもそれはほんとなのかね。

嘘偽りに塗れたこの世の中では、嘘がつけるのも立派なスキルのひとつ。

嘘つかれる側が適当にあしらっとけばいいだけの話。

でも、嘘をつかれてホンキでキレる奴はまだまだたくさんいる。

マジメもいいけど、もうちょっと肩の力抜いて行った方がよくないか。

確かに真面目な奴ほど馬鹿を見る世の中だ。嘘をつかれりゃ頭にもくる。

でも世の嘘つきどもにとって、嘘つけない世界は息苦しいもんだ。

それに勘違いしてる人多いけど、嘘つきとほら吹きは全然違う。

前者は悪意があるけど、後者はそれがない。

世の中の大半の嘘つきって、本当はほら吹きだと思うけど。俺も含めて。

「嘘」だと思うなら、今度嘘つかれたと思ったときにそいつに聞いてみれば。

多分楽しくてやってるだけだから。騙そうなんて気、ないと思うから。

そのことが分かったら、もっと気楽に生きられるんじゃない。

4:漫画の感覚。

漫画を読むな、本を読め、と叱る大人は数知れない。彼らにとってくだらない絵とともに描かれる漫画は唾棄すべきもの、文章のみで構成される小説や専門書は読むだけで賞賛に値するものなのだろう。いかに彼らが漫画はおろか、本すらも普段から読んでいないかがよく分かる。漫画と小説その他の本の間に本質的な違いはないのだから。両者ともその作品を世に送り出した人間が何らかの想いを込め、何らかの想いを伝えようとしてこの世に生を受けたのだから、どんなに低俗な漫画でも何も書かずに文句ばかり言う人間よりは遥かに価値があるといえる。文字が書かれ、作者が自分の想いや思想を伝達し、少なからず影響を及ぼそうとしている意味で、漫画と本の間にさしたる違いなどない。強いて言えば絵が多く書かれている分、漫画の方が読みやすい、従ってそこから作者の意図や想いを感じ取れやすいぐらいの違いしかない。漫画を忌み嫌う人間は本当に忌み嫌い、批判するために必要となる漫画に対する充分な知識をそなえ、充分な漫画読書量をこなしているのか、甚だ疑問である。彼らは単なる本を読みすぎるあまり、後発文化たる漫画の存在を意固地になって認められないだけではないか。本を読んで何らかの影響を受け、感動したりためになったとのたまう輩が、漫画を読んでその作者の意図や想いを汲み取ろうともせず、つまらない、意味がないと喚きたてる様は酷く滑稽である。彼らのような人間に対して私は逆に言いたい。本を読むな、漫画を読め、と。

3:朝と夜の感覚。

朝はいつから朝なのか。7時はもう朝ではない。その頃には小鳥が囀り、木々がざわめき、食器が触れる音が聞こえ、みそ汁の香りが漂い、車が公道を走り、道路工事の音がし、学校へ向かう嬉々とした子らの嬌声が聞こえ始めている。それらはすべて一日の始まりを告げるものであり、一日の朝を告げるものではない。夜中の間私たちは簡易的は死を毎日迎えている。夜がつかの間の死である以上、朝は生の象徴であり、一日が生まれるその瞬間こそ朝と言うべきではないか。母親の体内からこの世に生まれるその瞬間、私たちは何を感じるか。底知れぬ暗闇から暖かな光を受けるその瞬間、私たちは人間としてつかの間の生を堪能し、謳歌し、時には絶望し、悲嘆に暮れる。ならば全ての物音が聞こえず、かつ白々と日が差し始める時こそ朝というべきであろう。そして5時から5時半の間に私の五体感覚は最も研ぎ澄まされる。生きることが死ぬことであるかもしれないが、少なくとも生まれたその瞬間は私たちは完全にして無欠の個たる人間である。ならばその感覚は我々が毎日生まれ変わっているという確たる証拠になりはしないか。世界に朝は等しく訪れる。だが人間は毎日生まれ変わる。朝は今生における輪廻転生の舞台である。

2:生と死の感覚。

生きることは死ぬことだ。この世界に誕生する全ての生命体はこの世に生を受けたその瞬間から死ぬことを義務づけられる。死は誰にも等しく訪れる。だからこそ人はその逃れられない己の義務を、運命を恐れ、怖れ、畏れるのだ。しかし本当に死は怖れるに足るものか。我々は死に酷似した経験を毎日している。睡眠行為の際に夢を見ない状態のことだ。そこには何もない。自分は夢を見ていない、と意識することもない。ただ底知れぬ裡なる常闇が広がる状態が与えられるだけだ。厳密に言うと人は睡眠すれば必ず夢を見る。それに気付くか気付かないかだけだ。ならばそもそもこの生は何か。文字をタイプし、スクリーンを見つめ、呼吸をし、瞬きをし、心臓を動かし、内臓を機能させ、沈思黙考するこれら一連の動作もまた、いつかどこか樹と樹の間の木陰になったところにかけたハンモックの上でうたた寝ている誰かが見ている夢の一部ではないか。彼が再び起きるとき、それが即ち私の死ぬときではないか。ならば夢の中の住人たる私は死を恐れるべきではない。彼が自然と起き上がるその時まで精一杯生きるべきだ。それこそ彼が見たい夢なのだろうし、それこそ夢の中で私が与えられた役目だろうから。でも死を進んで望むべきではない。夢の途中で起こされることほど気分の悪いものはないからだ。それが良い夢ならなおさらだ。それが悪夢ならどこかの夢見人は寝汗をびっしょりかいて勝手に飛び起きるだけだ。いずれにしても死は恐れるものではない。それはいつかどこかで誰かが見た夢の終わりに過ぎないのだから。

1:感覚の感覚。

物事に意味は求めるべきなのか。意味づけられた瞬間に意味がなくなる物事が大半なのではないか。物事を意味づけるとは即ちその物事に定義を与えるということだ。定義づけられたモノは既に以前の物とは異質なモノであり、それに魅力を感じないのは私だけだろうか。むしろ何の加工も施さない、即ち物事を意味づけないまま理解することに魅力を感じるのは私だけだろうか。そしてその理解方法こそ感覚、感じで覚えるということではないか。私は感覚を大切にしたい。現代社会においては論理的思考を求められる場面が多い。それ自体を否定するつもりはない。でもそればかり求め、求められる世界は酷く味気ない。必要以上に意味を求めず、個人で培った感覚を頼りに生きる。これも一つの生き方として認められるべきではないか。