陋習を破る | H-MANオフィシャルブログ「H-MANのナカナカナイブログ」Powered by Ameba

陋習を破る

あれ~、本当ですね~、前回のブログ途中で切れちゃってましたね~、スミマセン。がんばって書いたんですが、残念。字数制限があるのでしょうか?まぁ、いいか、、、では進めていきましょう。

「旧来の陋習を破り、、、」高橋信次先生がよく言っていた言葉です。園頭広周先生は「男の役割は破壊と創造である」と言っていました。勿論、暴力以外のやり方でという事になりますけど。このブログでのやり取りも非難や対立、争いと感じる方も居るようですが、私のブログを見ないようにしている人を、追いかけていき、目をつぶっている人に目を強引に開いて、眠る事もさせず洗脳するという事をしているわけではないので、そんなに目くじら立てないでね、ってなトコでしょうか。嫌なら見なきゃいいんですよブログなんて。

さて”つるさん”からのコメントまた、いただきました。フムフム、、、なるほど、なるほど、、、そうですか、、、平行線ですね~あいかわらず。ナカナカ仲良くなれそうにありませんが。ど~すればいいんですね~、しかし。無視すればいいでしょうか?でもまぁ、もともとコメントを書かない人がほとんどで、その中にも同じような疑問を持つ人もいるかと思ってこれまでもコメントに答えてきたので今回も答えてみようかな~、短めにね、今回はコメントはいちいちアップしないので興味がある人は前回のコメント欄を見てください。

まず、オオカワ某氏、ウノ某氏を馬鹿にしてるのではとのことですが、確かに馬鹿にしちゃってるかもしれません。というか、ホントに困った人だと思いますよ。”つるさん”の言ってるように彼らは私よりも高橋先生を近くで見て、感じたかもしれませんが、かといって今彼らが説いている事が、高橋先生の教えと同じとは到底思えません。それは、もう著書を読み比べれば一目瞭然なんじゃないでしょうか?そう考えると”つるさん”はそのどちらの著書も読んでいないし、教えも理解していないという事になってしまいますが、果たしてどうなのでしょうか?

”つるさん”のほかにも、私が高橋先生に固執しすぎているとのコメントがありましたが、これはなぜかといいますと、オオカワ某氏のような人がいるからに他なりません。私がオススメするのは高橋先生の教えであり、私の考えではないのです。高橋先生の教えをあたかも自分の考えのように、いや、それをゆがめて自分はブッタであると言い、次には自分は神であると言ってしまうオオカワ某氏のようにはなってはいけないという、反面教師としてはオオカワ某氏には感謝しなければいけませんけどね。それに仏教徒は「お釈迦様は~」、キリスト教徒は「イエス様は~」、儒教を学ぶ人は「孔子は~」と語るわけですから私が高橋先生は~と語ることに何の問題があるのでしょうか?

それから、私が高橋先生の教えを本しか読んでいないのに、高橋先生を語るなというご指摘ですが、それを言うなら、”つるさん”もお釈迦様のことを語る事が出来なくなってしまいますが、、、?それに私よりもオオカワ某氏、ウノ某氏の方が高橋先生の近くにいたというなら、キリストのそばにいたユダはどういうことでしょうか?ユダは今キリスト教で真面目に信仰している人よりキリストの教えを近くで聞いて体感していたわけですが、どちらがキリストの教えを実践しているのでしょうか?キリスト教の宗教改革をしたルターやカルバンはキリストに会っていませんが、ユダよりも劣っているのでしょうか?

それに高橋先生は「私の本を何回も読みなさい」とよく言っていました、だから私は何回も読みます。オオカワ某氏が今も先生の本を読んでいるとは到底思えませんが。ですから私は先生の本を読むように人にも進めます。それに”つるさん”、本を読んだくらいで高橋先生を語るなと言いうなら、その程度の本を薦めて、誰かが先生の本を読んでも、なんて事は無いんじゃないでしょうか?

次に、私のブログが布教活動だとなんか問題があるんでしょうか?他にも洗脳だ、とコメントされた方もいましたが。仮に布教活動や洗脳だとしても、様はその内容ですよね。危険な思想ならそれはよくないことですし、それが真理、正法であるなら布教でも洗脳でもいいんじゃないですかね。ですからその辺は高橋先生の本を読んで判断してみてくださいという事です。その上でここはどうなのか?ここは違うんじゃないのか?というコメントが欲しいものです。しかも先生の本を薦めることで私に何の得があって、進められた人にどのような害があるのでしょうか?

短めといいつつ、なんか長くなっちゃいましたが。最後に「来ていた」は「行っていた」じゃないのかというご指摘でしたが、その通りですね。間違いでした。スミマセン。でも、心情的、立場的には「来ていた」と言いたいとこですけどね。

さて”つるさん”の話はこれまでにしまして、一つ質問に答えていきましょう。勿論、高橋先生の教えを元にですけど。



先祖供養はどのようにすればいいのか?


「先祖が成仏していない」「先祖供養をおろそかにしているから、、、」「何代目の先祖が、、、」何か不幸があり、救いを求めて、宗教、信仰に走る、そこでよく言われる台詞じゃないでしょうか?新宗教といわれるものから、お寺さんでも大抵は先祖供養という事がいわれていますが果たしてそれはどうなのでしょうか?

まず普通のお寺さんでは何をするかといいますと、お墓参りとか、仏壇、をきれいにして線香あげて、お花飾って、法事の際にはお坊さん呼んでお経の一つも上げてもらうと言う事でしょうか。怪しい新興宗教なら、更にお札やペンダント、ツボや印鑑、高~い仏壇や墓石なんか買わされちゃうんでしょうか。祈祷は別料金ですなんていわれちゃったりして。様は先祖供養をするには金がかかるという事なんですかね?そういうことになっちゃってますけど。

ではまず、立場を変えて考えていきましょう。自分が先祖です。子孫に対してどのような事を望みますかね。自分の子供に対してはどうでしょう。まぁ、普通に考えれば、子供や子孫が健康で、その家族が調和しいる事を望むんじゃないですかね。どうでしょう?子孫の不幸を願い、罰を当てたり、呪ったりしたいですかね。

中にはそんな変わった人もいるかもしれません。その様な人はやはり成仏出来ないわけですが、その人の子孫や子供の家庭が調和していれば、その子孫に罰を当てたり不幸にする事はできません。それどころか調和した家庭からは光が出ていますから近寄る事も出来ません。しかもその様な調和されている子供や子孫を遠目に見て、成仏していない祖先は自らの間違いに気付き、反省し成仏するきっかけになっていきます。ですから先祖供養と言っても特別な道具や、儀式が必要なわけではありません。自分が正法に基づいた生活をし調和した生活をし、調和した家庭を築く事が先祖供養になっていくわけです。勿論、両親や先祖に感謝の気持ちを持って生活をしなければいけません。

では、お墓や仏壇には何の意味も無いのか?と言いますと。実はな~んの意味もありません。死ぬ前に立派なお墓作ってる人ととかいますけど。そういう人は死んだらお墓に行くと思っていますから。お墓にいるわけです。お墓って気持ちよくないでしょ?死んだら突然お墓が居心地が良いなんて事は無いんですよ。仏壇も同じ事です。お経も死ぬ前に理解できないものは死んでも理解できないんですよ。じゃあ、自分が正法を知ってお墓も仏壇も要らないから、お墓ぶっ倒して、仏壇破壊して良いかというと、そうも行きません。親族一同が正法を知り納得していればそれも良いですが、そうじゃないほうが多いいと思います。そんな時は無理やり変えても混乱するだけですので、親族との調和を優先しながら、それに流されない、翻弄されない、染まらない自分を作っていきましょう。

この先祖供養についてのコメントをくれた方は、某宗教団体の二世だという事なので、その辺の折り合いが難しいと思いますが、両親との調和という事は常に念頭に置かなくてはなりません。

もう一つ気になったコメントで夢についてというのがありましたが、夢にも色々種類があります。細かく説明するのは今回はしませんが、よくない夢や、夢の中で自分が良くない事をしているのなら何か改善そる事があると考えれば良いのではないでしょうか。夢の中は想念の世界ですから、自分の感情がストレートに行為に表れますので、反省のによい材料になるんじゃないでしょうか。

このような質問は高橋先生の『心の対話』(三宝出版)という問答集もありますから読んでみてはいかがでしょうか。

ではでは。