禅定について②
最初に、コメントに答えてみましょう。
まずは、曹洞宗のお坊さんからですが、悪霊に憑依されますと、ノイローゼ、気が狂うことになります。勿論、参禅や瞑想をした方全員がなるわけではありませんが、危険性があるということです。
無念無想についてですが、コメントを頂いて私も少し考えてみました。私見ですので間違ってたらスミマセン。無念無想になる目的は無我の境地に到る事だと思いますが。この無我というのが曲者なのではないかと思います。高橋信次先生がおっしゃられた悟りは「宇宙即我」とい境地ですが、自分(の心)は、宇宙(神)そのものであるという事です。これはどういうことかといいますと、私(我)が有っての宇宙であり、神であり、そのほかの人々、物事、である、そしてそれらは自分自身であるということですが。これもまた無我という事になりますが、無念無想では有りません。有念有想の禅定には感謝という想念がありますが。無念無想の場合とどちらが心が安らかなので、深い瞑想が出来るのでしょうか?無念無想になろうとする自分は決して無くならないのですから、いつまでたっても心の安らかさや、悟りには到達できないのではないでしょうか?無念無想で感謝する事も無く、親や自分以外の人の感謝せず、無我になろうとするのは実はとても我が強いという事になるような気がしますが、いかがでしょう。逆に何故、無念無想になると悟れるのか?教えていただきたいです。ちなみに私の家も曹洞宗です。
それから、般若心経は世の中で随分ありがたがられているようですが。その内容は禅定をするとどのような功徳があるかという事が書かれています。ただ、その方法は書かれていません。お経は、それを読む人が正法を、お経の内容を実践していればそれなりに意味がありますが。ただ読んだり、書き写しても、発声の練習や字の練習以上ではありません。
以前、高橋先生の弟子であった園頭広周先生の講演ので次のように発言していました、「高橋先生は全人類の指導者でありますから、、、」とサラッと、当たり前のように言われてるのを見て衝撃を受けた事があります。高橋先生の本を読まれた方は、高橋先生の説かれた正法に触れるという事はどういうことなのか?よ~く、考えてみてください。凄い事です、、、
さて、本題に入りましょう。
前回は反省のついて書きましたが。そのような禅定は、「止観」といいます。止まって自分の心を観るという事です。そして反省して心を安らかにして神を感(観)じる為の禅定を「観の禅定」といいます。
具体的な座り方から書いていきます。
まず姿勢は、正座でも、胡坐でも楽なほうで良いです。胡坐の方が足がしびれなくて良いかもしれません。この際、お尻の下に座布団を半分に折ったものを入れると良いでしょう。参禅では結跏趺坐で座りますがそのほうが楽な方はそれでも良いです。私は半跏趺坐(片方の足だけ腿の上に乗せる)でやっています。胡坐だとどうしても体がねじれてしまうからです。
背筋を伸ばし、顎を引き、肩の力を抜きます。めがねやベルトなど、体を締め付けるも名は取るか緩めましょう。目を軽く閉じ、中の目は開いておく。
呼吸は腹式呼吸です。呼吸は字の通り「呼」吐く方から始めます。胸の息を口から全部吐き出したら、口を閉じ、鼻からなるべく静かにスーッと息を吸う。胸いっぱい吸ったら、みぞおちを引っ込める感じで、胸の息を下腹の方へグーっと飲み込み落とす、下腹のみなぎった感じを保ち、その間中「自分は神の子である」という事を想念する。出来るだけ息を止めて、保てなくなったら口を紙一枚あけて、ゆっくりと息を吐。また鼻からゆっくりと息を吸う、、、、
高橋先生禅定に心得として次のように言っていたそうです。
1、人間は神の子である。
2、心と体の調和を図る。
3、自分の心が風船玉のように真ん丸く、黄金色に輝いている事を心に描く。
4、自分が神の光に包まれて、自分の身体の周りに神の光の輪を描く。
そして感謝を深めていく。当然神に感謝していくのですが、最初は漠然としてなかなか難しいですよね。ですからまずは親への感謝から入って行き、周囲の人々、環境など思いを深めて生きます。
まぁ、簡単に書くとこうなります。止観、反省反省の禅定、観、感謝の禅定を交互にやる事で徐々に禅定が深まっていきます。そして高橋先生の著書をまた繰り返し読む、より深く理解できる、実践する、、、の繰り返しです。
最後に園頭先生が残してくれた「禅定十法」を書いときます。
1、善因善果、悪因悪果の法則を信ずること。
2、神の創られた法は、人間の心を以ってしては変更するこは出来ない。ただ従う以外ないのであることに
畏れを感ずること。
3、だからして、深く懺悔、慙愧の心を起こすこと。
4、もろもろの罪を無くするにはどうすれば良いか、その方法を求めること。
5、間違った罪を全部思い出し隠さないこと。
6、ともすれば、間違いを続けそうになる心を断固として絶つ決意。
7、法に従って正しく生きることを決意すること。
8、神の慈悲、愛によって生かされてることに感謝し神への報恩の心を起こし自分だけでなく多くの衆生 と、共々に救われることを願うこと。
9、常に我が心の内、外に神の生命(エネルギー)が充ち満ちていることに、感謝すること。
10、罪は本来、実体なきものであり、自分の心が執着している間だけ存在しているように見えるだけであ って、本来、自性なきものであることを悟り、ひとたび反省、懺悔した以上は再びそのことに心を囚 われないこと。
いや~、なかなか、文字にするのは難しいですが。折に触れてまた書いていこうと思います。くれぐれも禅定の際には『心行』と『祈願文』を読むことを、お忘れなく。高橋先生の本は繰り返し、何度も読みましょう。
ではでは。
まずは、曹洞宗のお坊さんからですが、悪霊に憑依されますと、ノイローゼ、気が狂うことになります。勿論、参禅や瞑想をした方全員がなるわけではありませんが、危険性があるということです。
無念無想についてですが、コメントを頂いて私も少し考えてみました。私見ですので間違ってたらスミマセン。無念無想になる目的は無我の境地に到る事だと思いますが。この無我というのが曲者なのではないかと思います。高橋信次先生がおっしゃられた悟りは「宇宙即我」とい境地ですが、自分(の心)は、宇宙(神)そのものであるという事です。これはどういうことかといいますと、私(我)が有っての宇宙であり、神であり、そのほかの人々、物事、である、そしてそれらは自分自身であるということですが。これもまた無我という事になりますが、無念無想では有りません。有念有想の禅定には感謝という想念がありますが。無念無想の場合とどちらが心が安らかなので、深い瞑想が出来るのでしょうか?無念無想になろうとする自分は決して無くならないのですから、いつまでたっても心の安らかさや、悟りには到達できないのではないでしょうか?無念無想で感謝する事も無く、親や自分以外の人の感謝せず、無我になろうとするのは実はとても我が強いという事になるような気がしますが、いかがでしょう。逆に何故、無念無想になると悟れるのか?教えていただきたいです。ちなみに私の家も曹洞宗です。
それから、般若心経は世の中で随分ありがたがられているようですが。その内容は禅定をするとどのような功徳があるかという事が書かれています。ただ、その方法は書かれていません。お経は、それを読む人が正法を、お経の内容を実践していればそれなりに意味がありますが。ただ読んだり、書き写しても、発声の練習や字の練習以上ではありません。
以前、高橋先生の弟子であった園頭広周先生の講演ので次のように発言していました、「高橋先生は全人類の指導者でありますから、、、」とサラッと、当たり前のように言われてるのを見て衝撃を受けた事があります。高橋先生の本を読まれた方は、高橋先生の説かれた正法に触れるという事はどういうことなのか?よ~く、考えてみてください。凄い事です、、、
さて、本題に入りましょう。
前回は反省のついて書きましたが。そのような禅定は、「止観」といいます。止まって自分の心を観るという事です。そして反省して心を安らかにして神を感(観)じる為の禅定を「観の禅定」といいます。
具体的な座り方から書いていきます。
まず姿勢は、正座でも、胡坐でも楽なほうで良いです。胡坐の方が足がしびれなくて良いかもしれません。この際、お尻の下に座布団を半分に折ったものを入れると良いでしょう。参禅では結跏趺坐で座りますがそのほうが楽な方はそれでも良いです。私は半跏趺坐(片方の足だけ腿の上に乗せる)でやっています。胡坐だとどうしても体がねじれてしまうからです。
背筋を伸ばし、顎を引き、肩の力を抜きます。めがねやベルトなど、体を締め付けるも名は取るか緩めましょう。目を軽く閉じ、中の目は開いておく。
呼吸は腹式呼吸です。呼吸は字の通り「呼」吐く方から始めます。胸の息を口から全部吐き出したら、口を閉じ、鼻からなるべく静かにスーッと息を吸う。胸いっぱい吸ったら、みぞおちを引っ込める感じで、胸の息を下腹の方へグーっと飲み込み落とす、下腹のみなぎった感じを保ち、その間中「自分は神の子である」という事を想念する。出来るだけ息を止めて、保てなくなったら口を紙一枚あけて、ゆっくりと息を吐。また鼻からゆっくりと息を吸う、、、、
高橋先生禅定に心得として次のように言っていたそうです。
1、人間は神の子である。
2、心と体の調和を図る。
3、自分の心が風船玉のように真ん丸く、黄金色に輝いている事を心に描く。
4、自分が神の光に包まれて、自分の身体の周りに神の光の輪を描く。
そして感謝を深めていく。当然神に感謝していくのですが、最初は漠然としてなかなか難しいですよね。ですからまずは親への感謝から入って行き、周囲の人々、環境など思いを深めて生きます。
まぁ、簡単に書くとこうなります。止観、反省反省の禅定、観、感謝の禅定を交互にやる事で徐々に禅定が深まっていきます。そして高橋先生の著書をまた繰り返し読む、より深く理解できる、実践する、、、の繰り返しです。
最後に園頭先生が残してくれた「禅定十法」を書いときます。
1、善因善果、悪因悪果の法則を信ずること。
2、神の創られた法は、人間の心を以ってしては変更するこは出来ない。ただ従う以外ないのであることに
畏れを感ずること。
3、だからして、深く懺悔、慙愧の心を起こすこと。
4、もろもろの罪を無くするにはどうすれば良いか、その方法を求めること。
5、間違った罪を全部思い出し隠さないこと。
6、ともすれば、間違いを続けそうになる心を断固として絶つ決意。
7、法に従って正しく生きることを決意すること。
8、神の慈悲、愛によって生かされてることに感謝し神への報恩の心を起こし自分だけでなく多くの衆生 と、共々に救われることを願うこと。
9、常に我が心の内、外に神の生命(エネルギー)が充ち満ちていることに、感謝すること。
10、罪は本来、実体なきものであり、自分の心が執着している間だけ存在しているように見えるだけであ って、本来、自性なきものであることを悟り、ひとたび反省、懺悔した以上は再びそのことに心を囚 われないこと。
いや~、なかなか、文字にするのは難しいですが。折に触れてまた書いていこうと思います。くれぐれも禅定の際には『心行』と『祈願文』を読むことを、お忘れなく。高橋先生の本は繰り返し、何度も読みましょう。
ではでは。