「あ」と「こ」の違い | H-MANオフィシャルブログ「H-MANのナカナカナイブログ」Powered by Ameba

「あ」と「こ」の違い

週一回は更新しようと思って始めたブログでしたが、とんだ体たらくでしてスミマセン。それでも月三回くらいは更新したいと思っていますが、、、

なんだか、また梅雨に逆戻りしたような天気ですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか?

死後の世界はこうだと断言するような人は怪しいとのコメントですが。そのような意見はよく分かります、確かに怪しい奴、怪しい本など沢山ありますからね。でも例えばですよ、「調和が大事である」というこは、あらゆる宗教でも道徳でも言われていますよね。「調和が大事」という事は怪しい人が言おうが、まともな人が言おうが正しいのです。もちろんどうしても死の世界はないという人を無理やり説得できるわけでも、そのつもりもありません。何故なら、遅かれ早かれその誤解は解けるのですから。だけど、ボーズで、ヒゲで、ピアスで、レゲエDJなんてのは怪しい奴かもしれませんね。だから、怪しいついでに「死んでも終わらない」と断言しちゃいます。でも高橋先生はとてもまともな方だと思いますが。

それから、死後があろうが、無かろうが、今を一生懸命生きるのが重要である。というようなコメントもいくつかありましたが。これもよく分かりますよね。実際私自身もそのように考え行動し、生活してきましたし、そのお陰で今のようにレゲエDJで生活が出来ている訳ですから。まんざら間違いではなかったと思います。では、そのような考え方をしていた頃と、正法に触れてからはどのように違うのでしょうか?

正法に触れる前の私は、神というものをあやふやながらこのように考えていました。「もし神がいて、自分が本当に努力しているのなら必ずモノになるはずである」もしくは「もし本当に努力しているのにモノにならないのなら、神はいないということになる」結果、成功したとまでは言いませんが、何とかメシが食えるようになったのですから、そのような考え方に確信もありましたし、自信も持っていました。

では正法に触れその考えはどのように変わり、どこが正しくて、何が足りなかったのか、考えて見ましょう。まず正しかったトコはなにか?それは自力だという事だと思います、自力の先に他力があるわけですから、コメントにあったように「死後があろうが無かろうが今を生きる」というのは正しいと思います。では何が足りなかったのか?一つは「謙虚さ」じゃないでしょうか、もちろん回りの人たち、仲間に対する感謝の気持ちはあったと思いますが、やはり調子こいてたと思いますよ。なんせ「俺が頑張った」んですから。先程書いた神に対する考え方も謙虚さのかけらもありませんよね。両親に対しても、「感謝しているか」と聞かれれば「感謝している」と答えていたと思いますが。親元も離れていましたし、「俺が頑張った」が勝っていたのではないでしょうか。もう一つは「祈り」でしょうか。

正しさの基準は「心の安らかさ」と「調和」ににあります。正法に触れる前と後では「心の安らかさ」も「調和」もまるで違います。この「心の安らかさ」というのが何故正しさの基準なのかと言いますと。人間には他人のは嘘がつけても自分には嘘がつけない「心」というものがあるからです。ただ生まれてからの環境、教育、思想、などによって「心が安らか」かどうか分からなくなっているから、迷ってしまうわけです。

「神様ありがとうございます」と「神も仏もあるもんか」と口に出したときにどちらが安らぎがあるかやってみてください。親に感謝した時としない時、「死んだら終わり」と考えた時の方が「心が安らか」でより「調和」できるというならそれでも良いと思います。

さて前置きが随分長くなりましたが、じゃあ死んだらどうなるのか?答えはそのまんまという事です。あの世とこの世は「あ」と「こ」の違いだそうです。ではどのように違うのか。

この世は物質(色)と心(エネルギー、仕事を為しうる能力)が同居している世界、これを「色心不二」とか言いますよね。これに対してあの世は「心」の世界です。

ですからこの世では心で思っても肉体がありますからタイムラグがありますよね。例えば東京にいて大阪に行こうと思っても、新幹線で2時間半かかるわけです。あの世は心の世界ですかろ思えばすぐ現象化されます。ただこれも大阪に行くというだけなら便利ですが。「あの野郎ぶっ殺してやる」と思えば殺しちゃってるわけですから大変です。この世でしたら「殺してやる」と思っても考え直したり、行動しなければOKなわけです。何ならそのようなことを考えていえても、ニコニコしていれば良い人だと思われちゃったりしますよね。しかしいくらこの世はタイムラグがあるといっても常にそのようなことを考えていればいずれ現象化されます。よくニュースで「あんなにいい人だったのに信じられません」なんて言ってますが。

じゃあ、そんな事ばっかり考えていたけど実行せずに死んでしまったらどうか?そりゃメンドクサイ世界に行きますよ。いわゆる地獄といわれてるとこでしょ。死んだらすぐ成仏して仏様になれるなんて都合の良い話はあるわけありません。カルマとか業といわれる所謂、悪い癖はわかってはいても、なかなか直せないのは誰もが知っていることです。ですから生前の心のままあの世に行く事になります。しかもあの世は思っている事が、そく現象化されますので大変です。しかも類は類を呼ぶという法則(これも転生輪廻の法則です何故なら似たような性格の人や性質の物は同じような円を描くので集まってしまうからです)も、この世なら、悪い仲間から一時的に離れたり、地理的に離れたり出来ます(と言っても心や行いが変わらなければタイムラグがあるだけで、また似たような人が集まるのですが)が、あの世は即です。ちょっと前に「世界が百人の村だったら」みたいな本がありましたが、あの世は「自分みたいなのが百人いる世界」という事です。

ですから、あの世はとても調和されています。つまり段階がはっきりしているという事です。地獄は地獄、天上界(天国)は天上界ということです。そういう意味ではこの世は天国と地獄がミックスされた場所とも言えます。ではあの世の段階はどのように分けられているのか?

高橋先生曰く『名誉と権力と財産を差っぴいたもの』が人間の価値だそうですよ。

一体何が残るのか?むむむむ~っ、、、、

また曰く『来世は次元の異なる世界にして 現象界を去りし諸霊の世界なり 意識の調和度により 段階あり この段階は 神仏の心の調和度による 光の量の区域なり』

これは『心行』の一文です興味のある方は高橋信次先生の『心の原点』(三宝出版)を読んでみてください。『心行』についてはいずれかこうと思いますが。先生の教えの核心は『心行』と『八正道』にあります。

それから、コメントの中に自ら命を絶った人が輪廻するのはどうも納得がいかないというのがありましたが、今回のブログを読んでいかがでしょう?自殺した人の心はどのような状態なのでしょうか?またその状態というのはどのような世界を現象化するのでしょうか?神は私達を生かそう生かそうとしている(その証拠に神を否定しても神は私達を亡き者にしたりしない)のですから、その神を否定する自殺という行為は許されるものではありません。自身がその間違いに気付くまで、厳しい環境は続きます。いきなり成仏できるはずがありません。アッ、それから無神論者の方達ももし死んでも終わりじゃなかったら、そこで「神などいない」と言ってみてください、一発でそのような世界にいけますよ。神とは光であり、愛ですから。それを否定した世界です。あんまりオススメしませんが。

天上界や地獄がどのような段階に分かれているかはまた改めて書きますね。

「じゃあ死んだらどうすりゃ良いんだよ!」ってことですが。

高橋先生、講演の中でこのように言っていました。

「素っ裸になっちまう事です、そして人生を振り返り、反省し、神に許しを請う事です」

ですから、この世の生活の中で反省の習慣がない人は、死んでも反省できないので大変ですよね。

また、このようにもいっています

「反省とは神の与えてくれて慈悲である」

誰でも(もちろん私もですが)一度は「あいつ死ねば良い」とか「いなくなれば良い」とか思った事はあるはずです。もしそれが全て実行されていれば、とっくの昔に人類は滅んでいますよね。ですからこの世というのは自分を成長させるために神が与えてくれた慈悲と愛の環境だといえます。

いや~、なんだか長くなってしまいました。まぁ、そういう意味じゃ雨も良いのかもしれませんね。

最近、高橋先生の著書を読んだというコメントも来るようになってきたので、次回は『八正道』について書こうと思います。先生の本を読んで『八正道』に触れ素晴らしいとは思うのですが、実践するとなるとなかなか分かりずらいものですよね。

それから、反省は大事ですが、反省反省といって暗くなってしまうのはよくありません。一度反省した事は切捨て、先に進み。また失敗すればまた反省するの繰り返しです。でもまぁ、最初は苦しいし、自分に愛想が尽きるような気分になりますけどね。頑張ってください。

ではでは。