続・言葉について | H-MANオフィシャルブログ「H-MANのナカナカナイブログ」Powered by Ameba

続・言葉について

このブログをパソコンで見ている方はお気付きかもしれませんが、新しいPVが完成しました。ブログの右側のところにあります。良かったら見てみてね。大きく見たい人はYou Tubeへ各自で行って下さい。

楽曲はアルバムタイトルにもなっている「不退転」。監督は上山亮二氏。氏は多くのPVを手がけている方で、去年はアナーキーのPVで賞も取っています。オーバーヒートのEC社長の映画「ラフンタフ」でも撮影を担当されています。今回は始めて仕事をさせてもらいました。

今までも何本かPVを作ってもらったのですが。毎回思う事は監督、カメラ、照明、助手の方まで皆さんプロだな!流石だな!という事です。まぁ、当たり前のことなのかもしれませんが、、、
どの方とも、多くを語り合った訳ではないのですが。その動き、仕事への取り組み、段取り、ムムムム~ッ、、、すばらし~。ありがとうございました。



さて本題に入りましょう。前回に引き続き「言葉」について考えてみる事にしましょう。では何の言葉についてか?「神」についてというお題で進めていこうと思います。では、

まぁ、このブログではよく「神」や「信仰」について書いているのですが。中には拒否反応を起こしている方や、H-MANついに狂ったか!!なんていう人もいたかもしれません。前回のブログでも書いたように、私の書いている、もしくは考えている「神」という言葉と、「神」という言葉に拒否反応を示す人とはやはりギャップがあるということです。そういう人たちの考えてる「神」とは一体何なんでしょう?と言っても、私も高橋信次先生の本で正法に触れる前までは、同じように考えていたと思います。

まず、一番胡散臭いのは、いわゆる新興宗教と呼ばれているものですよね。大体はその団体の教祖が神様や、それらしきモノとして崇められているわけですよね。そして救いを求めてそこに行ったのに、やれ献金だ、やれ新聞だ、広報誌だ、お墓を買え、仏壇を買え、不幸なのは信仰が足りないからだ、浄財しろ。そして、教団内部は幹部達が出世のために躍起になって、人を救う気などはなからありません。いや元々はあったのかもしれ事ませんが。次第に教団を維持すること、自己保身が先立つのかもしれません。すると教団を辞めようとする人があれば「罰が当たる」「地獄に落ちる」などと言って留めようとするわけです。しかも「神」の名の下にそのような事をいうわけですから、始末におえません。

他には何があるでしょうか?まぁ、お寺さんや神社ですかね。初詣なんて言うのはみんないくと思いますが。あれは神様や仏様にお参りに行くわけですよね。もちろん神仏に対して感謝、お礼をしに行く人も多いと思いますが。大体は何かお願いごとをしにいくんだと思います。それはさっき書いた新興宗教の走る人の中にもいると思います。現世利益という奴です。でもよく考えてください。なんでも願いをかなえてくれる、棚から牡丹餅でお金がもらえる!、濡れ手に粟でウハウハ!!なんだか胡散臭いですよね。そのような願いをかなえてくれるのが果たして「神」なのでしょうか?どっちかって言うと「悪魔」じゃないっすかねェ?しかも「神」を崇めていたはずなのに、いつの間にか自分の言う事を聞く、なんでも願いをかなえてくれる、召使のような存在の「神」になってしまっています。

ですから、「神」という言葉を聴いて拒否反応を示す人たちの考える「神」はこのようなことだと思います。もしくは無神(唯物)論者といわれる方ですかね。

前回も書きましたが、言葉というものはある一面しか表現できないものであり、また逆に言えば一つの言葉には無限の広がりがあるわけです。

「神は愛である」「神は光である」という言葉は、聖書にもよく出てきますし、聞いた事があるかもしれません。これは一体どういうことなのでしょうか?この言葉を理解する上でヒントになった本を一冊紹介します。

『真説「陽明学」入門』林田明大(三五館)

この中に「光」について面白い事が書かれています。ゲーテは唯物論の代表としてニュートンを槍玉に挙げます。

ゲーテ曰く「ニュートンは光を暗い部屋に閉じ込めて、光学器械を使って拷問にかけた」????

ようはニュートンは光を物質とだけとしか考えず分析する事だけしか考えていないという事です。???

ではゲーテは「光」に対してどのような見方をしているのか?

ゲーテ曰く「光とは無私の存在である」何故なら光は自分以外のものを照らす為だけに存在しているからだ。

確かにそうである、今目の前にある机も、コップも真っ暗になればなくなってしまう。反対に言えば机やコップがあるから「光」を認識出来るわけである。「光」は何かを、もしくは私達を存在させる為だけに存在している、無私であるとすれば、光=愛=神ということになり。「神は光であり、愛である」というのも納得がいくと思ういますが。どうでしょう?もちろんニュートンの考えも部分的には合っているとは思いますがゲーテの方がより深いという感じですね。

神=光=愛、のほかにも何か「神」と=になるものといいますと、法則でしょうか。転生輪廻の法です。全ての物質も循環しています、太陽系の惑星、衛星も秩序正しく回って(循環して)います。自分の行った事、思った事、念じたことも循環し自分に帰ってきます、このことを仏教では因果応報、物理では因果律といいます。そして、これらは法則ですので絶対に働き、その事を仏教では諸法無我といいます。人間がいくら言い張っても、我をはっても変えられないという事です。もちろん転生輪廻は私達が生まれて死んでまた生まれて死んで、、、永遠の生き続けるという事ですが。転生輪廻なんてしないほうが「愛」があるのでしょうか?まぁ、各自思い思いに、ゆっくり考えてみてください。

他にも「神」とは一大エネルギーであるともいえます。この地球を、太陽系を秩序正しくグルグルまわしているエネルギーはなんなんでしょう?まさか人間様の作ったエンジンで回ってるわけじゃあないですよね。

園頭先生がなぜ「神は愛なのか」?という事について、このように書いています。

自分の体を見よ。ご飯を食べれば、意識しなくてもその栄養は、骨になり、血になり、肉になり、各臓器になったり、髪になったりします。いらないものはウンコになり排出されます。よく出来ています。まぶたは虫が飛んでくると凄い速さで閉まります。自分の体を見ただけでもその精密さには驚かされます。しかもその仕組みを考えたのは誰なのか?やはりそこには「神」としか呼べない何かを感じざるを得ません。

いや~、もうちょっと上手く書けると思ったけれど、イマイチな文章でした。スミマセ~ン。ま、何かヒントになると良いのですが、、、

近いうちに「死」についても書いてみようと思います。

ではでは。