人間・釈迦②を読む | H-MANオフィシャルブログ「H-MANのナカナカナイブログ」Powered by Ameba

人間・釈迦②を読む

いや~、ホントに良い天気が続いてますね。皆さんいかがお過ごしでしょうか?桜咲いて、鶯も鳴いてます。布団も干して気持ち良い~!私は水泳しばらくサボってたのですが、幾らか調子が戻ってきました。プールへの道中もすがすがし~ね、ペンキ屋さんのオニ~チャンも昼寝してました。植木屋をしていた時、昼飯の後昼寝していたのを思い出しまします。良い季節です。

さて、前回に引き続き

『人間・釈迦』②集い来たる縁生の弟子たち 高橋信次 (三宝出版)

を読んでみます。今回は第一巻だけ読んで、他の高橋先生の本を紹介しようと思っていたのですが。自分が読みたくなっちゃたので第二巻を読み返してみました。それにしても、面白いですよ。ホントに。かといって、読書感想文を書く訳ではないのですけど。

まぁ、高橋先生をブッタの生まれ変わりと見るかどうかは、人それぞれですので、どちらでも良いのですが。例えば、多少なりとも宗教に興味があったり、自分が何故、何の目的で生まれてきたのか?人生とは何か?如何に生きるべきか?死んだらどうなるのか?、、、、?なんて事を考えた事がある人は、もしブッタやキリストと同じ時代に生き、出会えていたら、話を聞いたり、何か質問したりしてみたいと思うと思います。でも果たしてどうなのでしょうか?今でこそ、ブッタもキリストも偉大な方だという認識がありますが、その時代、その状況の中で、ブッタやキリストが偉大で、正しい事を説いていると判断できるのでしょうか?

ブッタやキリストが教えを説いた当時も、その教えは正しいと思い、弟子になったものもいれば、話も聞き、正しいと思ったがそれだけの人も、話の途中で席を立ち、帰る人もいたと思います。ただ単に病気を治すなどの奇跡、現世利益だけを求めた人も多かったようです。キリストの弟子なれたものでも、自分が後継者になりたいというもの、キリストが裁判にかけられたとき「私はイエスのことなど知らない」と言ってしまうものも出てきます。弟子であるユダが裏切る話は皆さんも知っていると思います。ブッタが亡くなったときも、弟子の一人は「これで自由になれる!」と喜んだそうです。ブッタは人の心、三世(過去世、現世、来世)を見通す力があったからです。

最近はあまり読まなくなってしまいましたが、私は以前、歴史小説や時代小説をよく読んでいました。その辺の本が好きな人は分かると思いますが。戦国時代でも、幕末でもいいのですが、自分のお気に入りや、憧れの武将なり、お侍さんがいて、その人物に自分を当てはめる、もしくはその人物の部下や、近くで一働きなんて事を夢見るものですし、それが歴史、時代小説の醍醐味でもあります。でも、これもよ~く考えてみればその時代にもし自分が生きていたとしても、全く関係ないところで生まれてたり、負ける側だったり、裏切り者、卑怯者として名を残してるのかも知れません。そういう意味じゃ今ダメな奴ならどの時代でもダメなのかなんて考えてもみたりしてました。

ブッタやキリストの時代も、既成の宗教がすでに「情」心を無くし人間の「知」と「意」によって歪められて、何が正しいのか?神とは何か?が分からなくなっていました。そのような時代を末法といいます。そして末法だからこそ正法が説かれてきました。まさに今もそういう時代ですが。その中で、その歴史の中で、正しい教えとか、正法に出会い、実践する、自分を変えていくという事はやはり難しいものだな~と思います。

ではでは。