正しい宗教とは?
先週末は愛知県半田のトレンチスプラシュというイベントに参加、私にとって今年最後のフェスでした。天気もよくお客さんも楽しめたのではないでしょうか。各自のショウの後、みんなでロバダブの時間が有ったのですが、これがナカナカ面白かったです。最後にPAPA UGEE、Jr DEE、NANJA MAN、そして私H-MAN、ありそうでなかなか揃わない面子です。いや~ッ、まるでFIRE BALLみたいでした、、、、嘘です。
、、、では気を取り直して本題に。
今回は正法と今現在ある宗教はどのように違うのかということを、考えてみましょう。
先まず正法は「自力信仰」です。ですからその対極が「他力信仰」ということになります。今ある宗教のほとんどが「他力信仰」です、どういうことかといいますと。例えば念仏や題目唱えると救われるといいますが、それを唱えると自分の悪い癖(業)が直るのでしょうか?それとも宗教団体の教祖にお願いしたり、すがったりすると自分の間違った行為も帳消しになって救われるのでしょうか?ましてやお金をいっぱい払ったら救われたり、少なければ救われなかったりするなら、それは宗教では無なく資本主義と同じになってしまいます。もちろん今の世の中を見れば解るように、これから先、資本主義で世の中が調和されていくようには思えませんし、社会主義や共産主義は中国や旧ソ連でおなじみ(未だに共産党とかいってる人は本当に日本を中国みたいな国にしようとしているのか?頭が悪いとしかいいようがないが。しかも『蟹工船』とかまた流行っちゃてるらしいけど、大丈夫なのかなぁ?)ですが、それに比べれば資本主義のほうがいくらか良いという程度のものです。資本主義と社会、共産主義は別々で対極の考えのようですが実は同じで、どちらも金の分配の仕方、金を中心にした考えでしかないのです。資本主義は自由で素晴らしいという刷り込みは意外と盲点かもしれません。ですからそれが宗教の中に取り込まれている事に気づけませんし、欲の皮の張った人ほどだまされてしまい。それを取り戻す為にさらに妄信、狂信していく事になります。こうなるともう宗教でも、資本主義でもなくただの賭け事みたいですが。
そして宗教というからには、どこの団体も教祖であったり、ご本尊、曼荼羅、偶像など神らしきものを崇め、その神様に色々な儀式や行、お布施などをしてお願い事をするわけですが。では願いが叶ったり、叶わなかったりするのはなぜなのでしょう?当然こういう時の決まり文句は「まだ信仰がたりない」とか言われて、さらに金を取られたり、信者を勧誘(と言ってもこれも金の出所が違うだけですが)させたりするわけです。そんなことで願い事を叶えたり叶えなかったりする気まぐれな神様が本当にこの大宇宙や大自然を創造したとは到底思えませんが、どうでしょう?しかも、もしそのような事でなんでもしてくれるなら、神様はまるで人間の使用人もしくは奴隷みたいなものですよね。崇めていた神のはずなのに、いつの間にかそれより偉くなっちゃってますけど、恐ろしい事です。
それからもう一つは、神が人間に罰を与えているのかということです。しかもたま~に見過ごしてくれたり、お金で解決!なんてどうかしていると思いませんか?まぁ、だから妄信、狂信て言うんですけど。さっきも書きましたが、本当の、全知全能の神がそんな気まぐれな存在な訳がありません。神はこの大宇宙、大自然の万生万物を動かし調和させ、私たちを生かしている愛と慈悲の塊なのですから、あいつは悪い奴だから今日はちょっと空気を少なめにとか、悪い事をしたからお前には昼は無しで夜だけにするとか、自分の子供の不幸を願う親がいないように、神が、神の子である人間に罰を与えるわけがありません。愛と慈悲の塊である神は善人にも悪人にも同じだけの光(愛と慈悲)を注いでくれているのです。
愚痴や怒り、足る事を知らぬ欲望は心に毒をつくり、曇らせ、皆同じだけ与えられている神の光を遮ってしまいます。そのことを不幸とか罰といいますが。全ては因果応報、蒔いた種は自ら刈り取る、つまり、全ての行為や思いは転生輪廻し自分に帰ってくるのです。このように神は一人ひとり罰を与えるのではなく、転生輪廻という法則によって神から離れていこうとする人間をまた神の元に引き戻すのです。太陽が昇ったり沈んだり、月が満ち欠けたり、四季があったり、、、万生万物、全てが転生輪廻の法則に従い、その外には出られません。その法則により調和された大宇宙、大自然は転生輪廻の法則に気づく為のヒントです。そしてその転生輪廻の法則を神といいます、まさに愛と慈悲の法則といえるのではないでしょうか。
つまり罰と見えるものは、嘘のつけない自分が自ら自分を裁いているのです。正法は、どこまでも自分です。自分で自分を助け、救わなければなりません。自分が努力、精進した結果、縁のある人や神様が助けてくれるのです。「自力」の先に「他力」があります。
このように「他力信仰」は願いが叶ったり叶わなかったりしますが、正法「自力信仰」は法則ですから、例外がありません、絶対です、100%です。全人類が救われるにはどちらがいいのか?
しかも法則ですから信じようと信じまいと完璧に働きます。ですから「他力信仰」の宗教は信者を辞めさせまいとしますが、正法「自力信仰」はやめるもやめないもないのです。良い事をすれば幸せになるし、悪い事をすれば不幸になる。当たり前ですよね。悪い事をしながら幸せになれると思っている人も自分に嘘はつけないのですから。
あと、宗教でよく言われるのが、先祖供養の事ですが。なにか自分に不幸があると先祖の祟りや、先祖が成仏していないなどと言われ仏壇やお墓を買わされたり、祈祷料として、べらぼうな金を請求されたりするようですが。自分の子の幸福を願うように先祖もそう思っているはずですし、先祖がした悪い事はその先祖自身のものです。仮に成仏していない先祖がいても、子孫やその家族が調和していれば近寄れないし、それを見て間違いに気付けば成仏していきます。それが先祖供養です。もちろん先祖に対する感謝は必要です、当たり前。間違った宗教(という事はほとんどの宗教に当てはまりますが)は先祖供養という脅しを使います。ようは先祖供養も金次第という事になっているようです。
それから禅宗は自力っぽいですけど、無念無想は自分が無いからダメです。やはり自分の心は自分でコントロールしなければいけません。正しい禅定(瞑想)は有念有想です。自分の心を自分で完璧にコントロールできるようになることを悟ったといいますが、禅宗の坊さんや、瞑想道場でノイローゼになる人が多いのは、無念無想になろうとして、心をかっらぽ、留守にした時に、魔が差してしまうからです。もちろん悟りが開けるわけがありません。
いや~っ、書いていて自分でも驚きましたが、本来、神や心、魂の救いを説くはずの宗教も、現世利益、ようは金の話ばかりですね。
ですから正法には、高橋先生が願いをかなえてくれるとか、金持ちになれるとかいう美味しい話が有るわけではありません。自分で自分を救う「自力信仰」です。ちょっと考えたら当たり前なんですけどね。
高橋先生の本を読んで、気付いた事や、疑問等ありましたら、ぜひコメントください。
ではでは。
、、、では気を取り直して本題に。
今回は正法と今現在ある宗教はどのように違うのかということを、考えてみましょう。
先まず正法は「自力信仰」です。ですからその対極が「他力信仰」ということになります。今ある宗教のほとんどが「他力信仰」です、どういうことかといいますと。例えば念仏や題目唱えると救われるといいますが、それを唱えると自分の悪い癖(業)が直るのでしょうか?それとも宗教団体の教祖にお願いしたり、すがったりすると自分の間違った行為も帳消しになって救われるのでしょうか?ましてやお金をいっぱい払ったら救われたり、少なければ救われなかったりするなら、それは宗教では無なく資本主義と同じになってしまいます。もちろん今の世の中を見れば解るように、これから先、資本主義で世の中が調和されていくようには思えませんし、社会主義や共産主義は中国や旧ソ連でおなじみ(未だに共産党とかいってる人は本当に日本を中国みたいな国にしようとしているのか?頭が悪いとしかいいようがないが。しかも『蟹工船』とかまた流行っちゃてるらしいけど、大丈夫なのかなぁ?)ですが、それに比べれば資本主義のほうがいくらか良いという程度のものです。資本主義と社会、共産主義は別々で対極の考えのようですが実は同じで、どちらも金の分配の仕方、金を中心にした考えでしかないのです。資本主義は自由で素晴らしいという刷り込みは意外と盲点かもしれません。ですからそれが宗教の中に取り込まれている事に気づけませんし、欲の皮の張った人ほどだまされてしまい。それを取り戻す為にさらに妄信、狂信していく事になります。こうなるともう宗教でも、資本主義でもなくただの賭け事みたいですが。
そして宗教というからには、どこの団体も教祖であったり、ご本尊、曼荼羅、偶像など神らしきものを崇め、その神様に色々な儀式や行、お布施などをしてお願い事をするわけですが。では願いが叶ったり、叶わなかったりするのはなぜなのでしょう?当然こういう時の決まり文句は「まだ信仰がたりない」とか言われて、さらに金を取られたり、信者を勧誘(と言ってもこれも金の出所が違うだけですが)させたりするわけです。そんなことで願い事を叶えたり叶えなかったりする気まぐれな神様が本当にこの大宇宙や大自然を創造したとは到底思えませんが、どうでしょう?しかも、もしそのような事でなんでもしてくれるなら、神様はまるで人間の使用人もしくは奴隷みたいなものですよね。崇めていた神のはずなのに、いつの間にかそれより偉くなっちゃってますけど、恐ろしい事です。
それからもう一つは、神が人間に罰を与えているのかということです。しかもたま~に見過ごしてくれたり、お金で解決!なんてどうかしていると思いませんか?まぁ、だから妄信、狂信て言うんですけど。さっきも書きましたが、本当の、全知全能の神がそんな気まぐれな存在な訳がありません。神はこの大宇宙、大自然の万生万物を動かし調和させ、私たちを生かしている愛と慈悲の塊なのですから、あいつは悪い奴だから今日はちょっと空気を少なめにとか、悪い事をしたからお前には昼は無しで夜だけにするとか、自分の子供の不幸を願う親がいないように、神が、神の子である人間に罰を与えるわけがありません。愛と慈悲の塊である神は善人にも悪人にも同じだけの光(愛と慈悲)を注いでくれているのです。
愚痴や怒り、足る事を知らぬ欲望は心に毒をつくり、曇らせ、皆同じだけ与えられている神の光を遮ってしまいます。そのことを不幸とか罰といいますが。全ては因果応報、蒔いた種は自ら刈り取る、つまり、全ての行為や思いは転生輪廻し自分に帰ってくるのです。このように神は一人ひとり罰を与えるのではなく、転生輪廻という法則によって神から離れていこうとする人間をまた神の元に引き戻すのです。太陽が昇ったり沈んだり、月が満ち欠けたり、四季があったり、、、万生万物、全てが転生輪廻の法則に従い、その外には出られません。その法則により調和された大宇宙、大自然は転生輪廻の法則に気づく為のヒントです。そしてその転生輪廻の法則を神といいます、まさに愛と慈悲の法則といえるのではないでしょうか。
つまり罰と見えるものは、嘘のつけない自分が自ら自分を裁いているのです。正法は、どこまでも自分です。自分で自分を助け、救わなければなりません。自分が努力、精進した結果、縁のある人や神様が助けてくれるのです。「自力」の先に「他力」があります。
このように「他力信仰」は願いが叶ったり叶わなかったりしますが、正法「自力信仰」は法則ですから、例外がありません、絶対です、100%です。全人類が救われるにはどちらがいいのか?
しかも法則ですから信じようと信じまいと完璧に働きます。ですから「他力信仰」の宗教は信者を辞めさせまいとしますが、正法「自力信仰」はやめるもやめないもないのです。良い事をすれば幸せになるし、悪い事をすれば不幸になる。当たり前ですよね。悪い事をしながら幸せになれると思っている人も自分に嘘はつけないのですから。
あと、宗教でよく言われるのが、先祖供養の事ですが。なにか自分に不幸があると先祖の祟りや、先祖が成仏していないなどと言われ仏壇やお墓を買わされたり、祈祷料として、べらぼうな金を請求されたりするようですが。自分の子の幸福を願うように先祖もそう思っているはずですし、先祖がした悪い事はその先祖自身のものです。仮に成仏していない先祖がいても、子孫やその家族が調和していれば近寄れないし、それを見て間違いに気付けば成仏していきます。それが先祖供養です。もちろん先祖に対する感謝は必要です、当たり前。間違った宗教(という事はほとんどの宗教に当てはまりますが)は先祖供養という脅しを使います。ようは先祖供養も金次第という事になっているようです。
それから禅宗は自力っぽいですけど、無念無想は自分が無いからダメです。やはり自分の心は自分でコントロールしなければいけません。正しい禅定(瞑想)は有念有想です。自分の心を自分で完璧にコントロールできるようになることを悟ったといいますが、禅宗の坊さんや、瞑想道場でノイローゼになる人が多いのは、無念無想になろうとして、心をかっらぽ、留守にした時に、魔が差してしまうからです。もちろん悟りが開けるわけがありません。
いや~っ、書いていて自分でも驚きましたが、本来、神や心、魂の救いを説くはずの宗教も、現世利益、ようは金の話ばかりですね。
ですから正法には、高橋先生が願いをかなえてくれるとか、金持ちになれるとかいう美味しい話が有るわけではありません。自分で自分を救う「自力信仰」です。ちょっと考えたら当たり前なんですけどね。
高橋先生の本を読んで、気付いた事や、疑問等ありましたら、ぜひコメントください。
ではでは。