道徳と宗教 | H-MANオフィシャルブログ「H-MANのナカナカナイブログ」Powered by Ameba

道徳と宗教

不承不承、嫌々ながら、渋々ながら、ブログを開始いたしました、私、不肖H=MANではありましたが。最近では、ついついコメントをチェックする為に、パソコンに向かってしまうのでした。まぁ、そんな自分に多少がっかりしつつ、今回も進めていきましょう。

なんか、パソコンばっかり見てたり、ケータイばかり見てるのって、抵抗あるんですよね。頭悪くなったりしないんですかねェ?それとも、凄いお利口さんになちゃったりして。そういえば、うちの敏腕マネージャーにも「どーせ本なんて読まねーで、パソコンばっか見てんだろう?」なんてことをよく言っていたのですが。ある日、新幹線での移動中、ひょいと横の敏腕マネージャーを見ると「ニュースウィーク」を読んでるじゃありませんか。ほーっ、と思い「面白い?」と私。「はぁ」と返事。「どうせ興味のある所しか読んでねーんだろ?」と私。「ハァ」。「それじゃ、全然広がっていかねーじゃねか。興味のある所も、ない所も端から端まで読むんだよ。じゃねーと、知らねーこと知れねーじゃねーか。しかも、興味ないことを読むのは、辛いだろ?だから、集中力や、忍耐力がつくんだよ。」「はァ、、、、」・・・・・・・・・・

なるほどね、たしかに食わず嫌いは良くないよね。ブログもやってみれば、うんうん。面白い媒体ではありますよね。だって、本とか出さなくても自分の意見が言えちゃったりするんだもんねェ。しかも、読んだ人からのコメントが来るとは、なかなかどうして、、、あっ!!!そのことを身をもって教えてくれていたのかッ?   さっ、さっ、、、さすが敏腕マネージャー・・・・・・・・

前回は難しい話題にもかかわらず、コメントをくれた方々ありがとうございます。色々と勉強になりました。「コメントにコメント」というのも書いてみたので、興味のある方はどうぞ。(まぁ、上の文を読んだら読めと言うことになってしまいますが)で、今回は何の話をするかといいますと、「道徳と宗教はどう違うのか?」ということを少し考えてみましょう。

まず道徳とは何でしょう?国語辞典には「人の守りおこなわなければならない道。人生上の考えや行動の標準」と書いてあります。なるほど、すばらしいし、そのとおり、皆さん道徳を守って素晴らしい世の中を創りましょう!おおーっ!ってなればいいんですが、なかなかそうならないのはなぜか?「だってさー、なんか堅苦しーんだよね、道徳とか言われてもさ。」ってなとこですかね、大体は?確かにそうですよね、四角四面で、正義感の強すぎる人はいくら道徳的で正しい事とはいえ、本人も周りの人も大変そうです。道徳は良いことなのに何故か?それは道徳に従わない人に対する批判や強制があるからに他なりません。しかもその道徳家の心の中には争いと憎しみがあり、自分の心に毒をつくるだけでなく、人の心にも毒をつくっていくことになります。さあ、ここが重要です。道徳にはない要素が一つ出てきました。そうです『心』です。

道徳は行動を規制しますが、宗教は行動はもちろんですが、それ以前の『心』のあり方を説くものです。例えば、「あいつを殺してやる!」と思っても行動に移さなければ道徳的にはOKですが、宗教的にはOUTです。確かに行動に移すよりも、移さないほうが良いに決まっています。しかし、じゃあどうせしないのなら、思っただけ無駄ということになりますよね。こう言うと「心に思うことはタダだし、自由なんだからいいじゃん」と答えるのかもしれません。では、程度の差はありますが体を動かすと疲れますよね、同じように心配しすぎたり、怒ったり、悲しんだりすると疲れるのは何故でしょう?
何故ならこの肉体が自分な気もしますが、実は『心』こそが本当の自分なのです。肉体が全てなら寝ている間も、耳があれば聞こえるし、会話も普通に出来るはずですよね、もちろん脳みそもそこにあるのですから。極論をいえば死んでる人も歩き出すことになります、体があるんですから。逆に言えば、体の痛みは、何がそう感じているのでしょうか。患部?神経?脳?いや、やはり『心』です。ですから行動(肉体)を規制したところで、『心』で良くない事を思っていては安心は得られないのです。(安心=心の安らかさ、ウーン、漢字ってよく出来てますね)

そして道徳と宗教のもう一つの違いは、そこに、『祈り』というものがでてきます。その究極をイエスキリストは実践し、私たちに示しています。誰もが知っているように、イエスは、あるものには殴られ、あるものには唾をかけられ、罵られ、そして最後十字架に掛けられます。その時にイエスはこう言ったそうです「神よ人々を見棄て給うな、その為す所を知らざればなり」まぁ勉強をおろそかにしてきた私には若干、難しいですが多分こういうことだと思います「彼らは誰に何をしているかわかっていないのです、神よ彼らの罪を許してしてください」自分を殺しに来たものを許し、祈るのです。まぁ、そうそう真似できるものではありませんが、究極はそういうことです。
では、もう少し身近な例を挙げますと、誰かにいきなり怒鳴られたとします。そしたらもちろんいい気はしないですよね。なんなら、倍の勢いで怒鳴り返したいぐらいですから。道徳的にはそれは良くないが、先に怒鳴ったほうがより悪い、ってトコでしょうか。宗教的にはこうです、もし自分に非があれば謝り、それを教えてくれた事に感謝する。まるで勘違いであったならば、それは相手の心が毒を造り、自ら飲んでいるのですから、その気の毒な相手を許し幸せを祈ってあげられると、相手の毒も食わず、安心が得られるという事です。そしてその、人のために祈る行為によって神の心である愛を知り、神を感じ、感謝が出来るのだと思います。
さてどちらに「心の安らかさと調和」があるのでしょうか?

何かだいぶ難しくなってしまいましたが、(私の不徳のいたすところですが、すみません)やはり道徳を越えるというところに、宗教なり信仰の醍醐味があり、真の自由があるのだと思います。



ですから私も敏腕マネージャーに感謝して仕事をしなければいけませんね。けして怒鳴ってはいけません。

例え相手が悪くても、、、

あっ、、、!”敏腕マネージャー”なんだから、私に非があったのか・・・?

やはり、修行の道は厳しいですな。およよよよ、、、、、、、、、、