今回の記事は、……



実は、台北で行われたフィギュア四大陸選手権の際に、生まれ変わったNew「愛の夢」の演技終了の直後から抱いていた特別な感情を、何時か最新記事として更新しようと下書き保存として書き溜めていた記事です。


東北関東大震災の被害状況を伝える報道で日を追う毎に公表されるその被害の大きさが分かるにつれ、記事としては不謹慎では?と自重して差し控えて、2ヶ月近く公表出来ずにいたものです。



悲惨な状況で終戦を迎える事になった原爆の被害と今回の震災による津波や原発事故による被害を単純に比較できる訳もありません。ましてや、この二つの事柄を、全く関係のないフィギュアの演技とを、単純にファンだからと無理矢理に繋げて如何にも浅田真央さんの演技をまるで、『神格化している。』『馬鹿げている。』と揶揄され、恥ずかしい事にならないだろか?と考えてしまったからで、

《今も辛く困難な状況にいる多くの被災者や、親族や知り合いを亡くされたご家族や関係者の方達、と原爆の被爆者として生きる方達やそのご家族の方達、そしてフィギュア・ファンの気持ちを自分の関与しない所で傷つける事にはならないだろか?》と言う憂いからです。

ですが、どうしても僕個人の小さな薄い殻の中に納めきれなくなりました。幼稚な考えで自己満足的な文章になるかも知れませんが自分に対する戒めのつもりで被爆地長崎を故郷に持ち、被爆者の父を弔った者として書き残したいと思ったのです。



前置きが長くなりました、何処から書いたら良いのかわかりません……、取り留めなく書きます、順を追って浮かんだ言葉をそのままに書きたいと思います。



結論から最初に言うと、浅田真央さんが演じた四大陸での『愛の夢』の最後、垂直に掲げた右手と水平に伸ばした左手のポーズを見た瞬間に、長崎の平和公園にある祈念像が重なって見え、何故だか被爆者として生きた親父の姿が回転木馬の様に頭の中を一瞬で駆け巡り、恥ずかしながら涙してしまったのです。それは、正しく『涙してしまった。』の表現が表す様に自分でも思い掛けない事でした。



僕は、長崎市内の高校を卒業し大学へ通う為に東京で一人暮らしを始めました。上京が決まった時は自由になれたと、二度と故郷へは帰らない覚悟で親元を離れる事にしたのです。大学卒業後も都内で就職し、殆ど親は疎か生まれ育った街を省みる事などありませんでした。



15年前、六十六で他界した父親に生前、一度だけ被爆体験を聞かされた事があります。被爆当時、中学生で爆風で飛ばされた父は、左頬から顎にかけての骨の半分を骨折して、その部分が陥没してしまったそうです。

当然、終戦後間もない頃ですから整形医療としての治療はままならず亡くなる時まで顔には大きな傷痕が残っていました。父にとっては相当なコンプレックスだったのでしょう、生前外出する際には風邪をひいた訳ではないのにいつもマスクで口元を隠していました。

唇が上手く閉じないせいで息が漏れてタバコを吸うのに苦労し、右手でタバコを持ち、空いた左手で鼻を摘みながら唇の隙間をおさえて器用にタバコを吸っていたものでした。


父が他界してから随分経過していたので油断していたのかもしれません。葬儀で喪主の挨拶を任された時でさえ僕はドライに振る舞い、葬儀中に人前で涙する事は無かったのに、好きなフィギュアでしかも、ファンの浅田真央さんの演技に完璧に開けっ広げた状態の心に、一滴の雫が水面(みなも)に波紋を広げる様に色んな感情が湧いて抑えられなくなったのですから自分でも驚きでした。



平和祈念像について調べてみたら、北村西望氏により『核のない平和な世界』を望み、神の愛と仏の慈悲を象徴し建立された像で、垂直に高く掲げた右手は核の脅威、水平に伸ばした左手は争いを抑え平和を祈念する意味があるそうです。

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『大袈裟だ。』、『馬鹿げている。』と思われるかも知れませんが、好きに生きて来て親の死に目にも会えなかった自分を、何処かで許せなかったんだと思います。
それが、あの演技を見終えた後に、全てを許して貰ったような変な感情になったんです。

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戦後焼け野原になったかと見紛うような被災地を見ると、今の日本はもしかしたら敗戦後の状態と同じなのかもしれません。



そう思うと僕には、四大陸で浅田真央さんがFPの『愛の夢』の最後に見せたあの立ち姿が、これからの復興の牽引を象徴している兆しに見えてならないのです。Daddy'sFactoryの憂い-110320_122411.jpg



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