http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34029 上記文抜粋
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いじめ研究の第一人者が断言
内藤朝雄「いじめ加害者を厳罰にせよ」
法律も市民社会の論理も学校ではシャットアウトされる
内藤朝雄氏
この30年ほど、数年おきに、いじめ自殺事件をきっかけとしたいじめ報道ブームが起きている。
人々は未曾有の事態が起こったかのように煽られ、騒ぎが収まるとすぐに忘れ、次の報道ブームで同じ興奮が繰り返される。今年も、相変わらずのいじめの内容、同じような学校や教育委員会による隠蔽、識者や芸能人による同じような精神論のコメントがメディアで流され続けている。
メディアは、学校制度の構造的な問題から人々の目をそらし、「心がけ」の問題に意識を誘導し続け、結果的にひどい状況がいつまでも続く片棒を担ぐ。たとえば朝日新聞社の『いじめられている君へ いじめている君へ いじめを見ている君へ』(朝日新聞出版・2012年)では、社会的成功者たちが体験談を交えて「心がけ」を説く。
いま、私たちが信じて疑わない学校の「あたりまえ」を考え直す必要がある。学校は、同年齢の生徒たちを一纏(まと)めにして、朝から夕方まで狭いクラスに軟禁する(学級制度)。そのうえで、授業から給食、班活動、クラス対抗の学校行事、掃除、部活動など、ありとあらゆる強制的な仕掛けを使って、生活を頭のてっぺんからつま先まで集団化しようとする。
学校は、人と人が自由に距離をとることを許さない。生徒たちが「教育的なしかた」で関わり合い、共に響き合って生きるよう、強制的にベタベタさせる。
さらに学校は「教育の聖域」とされ、原則的に法が入らない、治外法権の場所になっている。学校は、生徒たちの市民的自由を剥奪し、狭い世界での過密な集団生活を強いる。そして、大人であればあたりまえの市民社会の論理は、学校ではシャットアウトされる。
このような生活空間で、外部と異なる生徒たち独自の小社会が生まれ、その小社会に固有の秩序と現実感覚が生じ、優勢となる。それは「仲間うちの勢いが絶対」「ノリは神聖にして侵すべからず」というタイプの秩序であり、「いま・ここ」の群れの付和雷同が何よりも重要になる。このような秩序状態のなかで、いじめが蔓延し、エスカレートし、歯止めが効かなくなる。
人を虫けらのように扱う「加害者」はなぜ生まれるのか
これは、学校の生徒に限らない人類普遍の現象だ。たとえば旧陸軍内務班の狭苦しいベタベタした小社会では、必然的にリンチが蔓延した。将校が毎日の朝礼で私的制裁を禁ずる訓示をしても、止めることはできない。
心理学者のジンバルドーは、大学の地下室に模擬監獄をつくり、上品な育ちの、心身共に健康な学生たちを被験者に選び、囚人役と看守役に分けて集団生活をさせた。すると、最初の数日で看守役は歪んだサディストのようになり、囚人役はノイローゼ状態になった。
私たちが「あたりまえ」としてきた学校制度に、旧陸軍内務班やジンバルドーの監獄実験と同じ、いじめを蔓延させ、エスカレートさせ、歯止めが効かないようにする普遍的なメカニズムが埋め込まれている。普通の家庭で普通の育ち方をした生徒たちが、学校で集団生活を送ることで、人を虫けらのように扱ういじめ加害者になってしまう。
このメカニズムについては、拙著『いじめの構造 なぜ人が怪物になるのか』(講談社現代新書・2009年)で詳しく論じた。本山理咲の『いじめ 心の中がのぞけたら』(朝日学生新聞社・2012年)は、これを漫画の形でみごとに描いている。
治外法権の閉鎖空間に閉じこめて強制的にベタベタさせる現行の学校制度を変え、生活環境を通常の市民状態に戻せば、いじめを激減させることができる。だが、「教育」や「学校」は、子どもたちを破壊してでも護持しなければならない独善的なイデオロギーとなっている。
山脇由紀子の『震える学校』(ぽぷら社・2012年)は、いじめが蔓延する学校の非道な構造を抉(えぐ)りながら、学校に帰依すべしと説くような奇妙さが印象的だ。同じ非道に直面した母親の体験談、内藤みかの『たたかえ! てんぱりママ モンスターティーチャーとのあれれな日々』(亜紀書房・2012年)と併読されたい。学校関連の組織人で「ない」ことが、どれほど大切かわかるだろう。
学校に教育を独占させず、人々が多様な学習支援団体を自由に選択できるようにする中長期的な制度改革が必要だ。それまでの移行期には学校に法を入れ、学級制度を廃止する短期的改革が必要だ。
メディアによって、問題の本質が見えなくなった
私は2001年に学術書『いじめの社会理論』(柏書房)で、少なくとも学校のいじめについて原理的に考えるべきことはすべて書き尽くした。研究者ではない層には読みにくいという求めに応じて、2009年に前述の『いじめの構造 なぜ人が怪物になるのか』を世に出した。いじめに関しては、世界的にもこの二つのロングセラーを超えるものは出ないだろうと自負している(英訳すれば大きな反響があるはずである)。
私の考えは、読書層には無視できない正解として広がったものの、世論を動かし、政策を動かす力になったとは言い難い。テレビや新聞・雑誌などのマス・メディアが、テレビ時代劇『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』のような、耳に心地よい「安心して聞くことができるお話」を語る芸能人や評論家に、マス発信を独占的に担わせ続けてきたからである。
いじめ問題にかぎらず、現在、テレビのバラエティ番組のスタイルを原型とする「気分の言葉」で世論がつくられ、それによって、マス・メディアがつくり上げた橋下徹氏のような新しいタイプの政治家が選挙で多くの票を獲得するようになった。学校教育の構造的問題も、メディアによるバラエティ番組的な言葉の繰り返しによって、目の前にあっても見えない状態にされてしまう。
この構造に風穴を開けようと意図して、私は新刊『いじめ加害者を厳罰にせよ』(KKベストセラーズ)を世に出した。
まず、誰でも電車の中やぶつ切り時間で読むことができる文章で書いた。そして、メディアが「マスコミ芸人」を使って流布してきた、いじめについて世の中で信じられていることや、おきまりの人情パフォーマンスがどれほど間違っているかを、目から鱗が落ちるようなしかたで提示することにした。これをしながら、いじめの核心を簡潔に示していった。
専門家を自称するマスコミ芸人たち
テレビや新聞・雑誌などでお馴染みの人情パフォーマンスで最悪のものは、「死なないで」「自殺はやめよう」といったメッセージである。それに対して、私は次のように書いた。
「有名人コメントの中で最悪なのは、『死なないで』というメッセージである。(中略)いじめられてつらい思いをしている生徒は、必ずしも最初から自殺を考えているわけではない。彼らの頭の中は混乱し、様々な思念でカオスのようになっている。いわば、感情がストーリーにそった形になる前の鬱屈のごった煮のような状態だ。彼らは自分の置かれている状況をどうとらえ、どう行動していいか決められずにいる。
ここで、選択肢と選択肢集合を分けて考えよう。世界中のあらゆる選択肢は人間の意識がとりまとめて生きるには多すぎる。そこで、(中略)状況によって半自動的に選択肢集合からある選択肢が誘導され、その選択肢の中から、『あれかこれか』を選ぶようなしくみになっている。たとえば、いじめられたときの選択肢集合U={A,B,C・・・}があるとしよう。その内実は、
A: 生きる-死ぬ
B: 警察に行く-マスコミに連絡-議員に相談-泣き寝入り
C: その他
といったものであるとする。鬱屈のごった煮のような状態では、まだ選択肢集合の中の選択肢が意識に上らず、感情もはっきりしたストーリーによって形作られていない。感情はストーリーによって枠づけられることで、はっきりした感情として成立する。
そのようないじめ被害者に本来与えるべきなのは、『加害者は敵だ』というメッセージである。学校で『仲良く』することを強制され、加害者でも『友だち』『仲間』だと思い込んでいる被害者は『敵』というメッセージを受け止めることで、しかるべきポジティブな行動がとれるようになる。
ところが、いじめ被害者は『死なないで』というメッセージを受け止めると、『自分が置かれている状況は、生きるか死ぬかなんだ』と思ってしまう。有名人の『死なないで』というメッセージが、ごった煮になった選択肢集合の中からわざわざ『生きる-死ぬ』の選択肢を拾い上げ、被害者の目の前に据えてしまうのである。結果的に『死なないで』はその字面に反し、被害者を自殺に向けて内向させる役割を果たすことになる。
以上のように、選択肢集合のなかで潜在化されていたA『生きる-死ぬ』という選択肢へといじめ被害者を誘導し、感情に『生きるか死ぬか』という選択のストーリーを与える『死なないで』というメッセージは、きわめて有害と言わざるをえない。
WHO(世界保健機構)は世界中の報道機関に対し、生活上の困難に直面している人に「生きるか死ぬか」という選択肢を示すような報道はしてはならない、という声明を出している。おそらく、日本のマスコミはそのことも知らないのだろう」(『いじめ加害者を厳罰にせよ』p.104-106)
私はこのように、マスメディアによって人々が信じ込まされてきた「あたりまえ」を片端から潰していった。
「いじめチェックリスト」はでたらめだ。「いじめは傍観者も加害者」という言い方は、路上で暴力団に絡まれた人を身を挺して助けようとしない普通の市民に「お前も暴力団だ」というに等しい暴論だ。日本の「人権派」が主張している少年法の保護教育主義は、人間の尊厳をくつがえす反人権の考え方だ。
じっくり面接したこともない人たちによるいじめやその他の犯罪に対して、「これが解決法だ」と自信たっぷりに答えたり、○○障害といった診断名をつけたりする専門家と称する有名な識者たちは、マスコミ芸人に身を落とした自称専門家たちだ。本物の専門家はそういう「テレビの企画にあった」発言をしないから、ほとんどテレビに出ることができない。
さまざまな問題で「愚民化」が進む日本
また拙著では、被害者自身が「友だち」として加害者グループに「飼育」される「友だち家畜」という現象についても詳しく論じた。友だち家畜にされた被害者は、加害者グループは「友だち」だと自分に信じ込ませようとし、「友だち」であるために涙ぐましい努力をする。そのおかげで加害グループに都合のよい「カモ」にされてしまう。
また、加害グループはきめ細かく被害者を「しつけ」「調教」する。被害者は、いじめられることを「遊びとして」楽しんでいるかのような笑顔を顔に貼りつけて、加害グループの後をついて回る---という形で、加害者たちに連れ回される。このことを最初に私に教えてくれたのは、かの大河内清輝君の第二の遺書「旅日記」のこんな記述だ。
「イルカ島のイルカの目を見たらとても悲しそうだった。イルカは人間のいいなりになっているけど、人間が人間のいいなりになるなんて・・・」(豊田充『清輝君が見た闇』大海社)
『清輝君が見た闇』に限らず、いじめに関しては80年代から90年代に、厚みのある取材に裏打ちされたすぐれたルポルタージュが綺羅星のように現れた。いじめの質感を感じ取りたければ、それらの本を次から次へと読んでみることだ。これらについてはブログで紹介した。
現在、日本の世論はテレビのバラエティ番組のようになり、さまざまな社会問題に関する「愚民化」が進行している。その構造に棹をさすスタイルを、いじめの本という形で試行錯誤した。今回の『いじめ加害者を厳罰にせよ』が多くの人の目に触れれば、少なくともいじめ関連の分野では世論を変えることができるはずだ。また、読者はマスコミ芸人の語り口に対する批判的な目利きができるようになるはずだ。
いじめに限らず、原発問題など、マス・メディアによって核心から目を逸らされてしまった社会問題に関して、志ある執筆者が拙著のスタイルを参考にしてくださればと思う。
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抜粋終わり
>法律も市民社会の論理も学校ではシャットアウトされる
然り。
だからいじめが繁茂し、社会に適応しにくい子供ばかりになる。
学校は奴隷製造工場