歴史的な事件が起こった日付で、私が一つだけ覚えているものが八月十八日(旧暦)です。
何があった日かというと、
豊臣秀吉の逝去
八月十八日の政変
それぞれ時代は異なりますが、同日に発生したこの2つの重大な出来事は、後の結果へ至る非常に大きな転換点となりました。
豊臣秀吉の死が招いた天下の動乱に関しては今さら紹介するまでもないと思うので省きます。
ところで秀吉には、その死期の近付いたころ、主君信長の亡霊に苦しめられたというエピソードが残っています。
秀吉は本能寺の変後、天下統一の過程で信長の息子、織田信孝を自害に追い込みました。
主をうつみの 野間なれば むくいを待てや 羽柴ちくぜん
秀吉への怨みの深さは、信孝の辞世の句にも現れています。羽柴ちくぜん とは、秀吉のことを指しています。
恩を忘れ主筋を討った報いを待て、と。
信孝が自害した寺には、当時を物語る血も凍るような逸話や品々が今も伝来しているそうです。
秀吉は他にも信長の姪を自らの側室にするなどしていますので、泉下の信長にはとても顔向け出来ないと自覚していたのでしょう。
心の隅にあったそれらの罪の意識が、自らの臨終を前に大きな不安となり、それが信長の亡霊という姿になって秀吉の前に現れたのかもしれません。
もう一つの八月十八日は幕末の京都で起きた政変です。
当時の京都は尊皇攘夷の実行を唱える浮浪書生の巣窟になっており、彼等の前で開国の「か」の字でも口にした者は、無惨で強引な死が訪れました。
奸知に長けたこれらの浮浪らは、貧窮していた朝廷の公家を抱き込み、あるいは脅し、朝廷内部の意志を自在に左右して、遂には偽勅(天皇の意志と偽った命令)を用いて幕府に諸外国との一方的な条約破棄と攘夷の実行を迫ります。
要するに、幕威を失墜させる目的で無理難題を押し付けたのです(外国との交際のルールを遵守しようとした幕府に対する当てつけ)。
ところで尊皇攘夷という言葉は、決して=倒幕を指すものではありません。
幕末に流行したこの思想は、幕府の支柱である御三家の水戸藩から生まれました。
朝廷を尊崇する事によって全国の人心を統一し、それによって幕権を強化し、外国の敵を打ち払うというもので、あくまで幕府を中心にした新しい考え方です。
外圧に揺れる日本に一大ムーブメントを巻き起こしたこの思想は、浮浪書生の主導者らによって巧みに倒幕運動のスローガンへと変形させられます。
この時期の主導者とは長州の久坂玄瑞や久留米の真木和泉などでした。
しかしその行動があまりにも狂暴すぎたことや、偽勅乱発の事実を知った当時の天皇や他藩から憎しみを買い次第に孤立、そして久坂らが率いた過激派は政治的クーデターによって一夜にして京を逐われました。
これが八月十八日に起きた政変のあらましです。
久坂らが口では尊皇尊皇と言いながらも、実際には天皇を政治的道具としてしか見ず、かつ占有しようと企んだ事は、後に起こる禁門の変(長州の過激派が復権を狙い天皇を強奪せんとして京に攻め寄せ御所に砲門を向けた)を見ても明らかでした。
維新志士というとそれだけで英雄視されがちですが、久坂らの私心による一切なりふり構わぬやり口は、豊臣家を滅ぼし去った晩年の家康に通じるものがあり、個人的には嫌悪感さえ抱きます。
長州の名誉の為に言えば、長州には長州の道理があり、倒幕に走る動機も十分にあります。
桂小五郎や高杉晋作らはテロリストの側面もありますが、革命家や政治家として大きな功績を残した事実があります。私は桂や高杉は大好きです。
久坂玄瑞の不幸は挽回の機会がないまま、単なる利己的なテロリストとして生涯を終えてしまった事かもしれません。
国のために敢えて人柱になっただとか言われていますが後付で何とでも言えますからね。
