1942年

台湾がまだ日本の植民地であった時代

 

 

母は

陸軍将校の祖父と

当時の台湾総督府の書記官の

長女であった祖母との間に

台北で生まれた

 

 

 

 

同年12月

祖父は戦死してしまい、

従って母は

自分の父親を

写真の中でしかみたことがない

 

 

 

 

 

 

 

1942年12月に祖父が戦死したあと

次第に戦火が厳しくなる中

1944年母一家は日本へ帰国

 

母はこのときまだ2歳であり

従って母には台北での記憶はない

 

 

その後一家は

東京都内に移り住んだ

 

当時まだ元気であった

曽祖父母と祖母に

育てられたという

 

 

西東京にある

今でもトップ3に入る

都立高校を卒業したあとは

 

短大の英文科を卒業

 

その後商社でしばらく勤務したのち

 

山形県選出の国会議員の

私設秘書として働いていた

 

そんな中で出会ったのが父である

 

 

 

二人が新婚旅行で

向かった先は

「中国」

 

日中国交正常化して間もなく

新婚旅行での中国というのは

かなりレアなケースだったそう

 

父が日中友好協会に

関わっていたことも

大きい

 

それにしても

まさか二人の子どもが

香港で働くことになるなどとは

夢にも思わなかったろうが

 

いずれにせよ

母は出産を機に

仕事を退職

 

その後は専業主婦となった

 

特に副業や

パートをするわけではなかったが

母は常にアクティヴだった

 

小学校のPTAの役員なども

頼まれれば

よく引き受けてやっていた

 

 

何かと人助けをするのも好きで

民生委員になってからは

町内の色々なところへと

出かけていた

 

また父が自分で選挙に

出るようになってからは

 

後援会のみなさんの

お相手をしたり

挨拶回りをしたり

というのは

母の役目になることが

多かった

 

田舎の町の

後援会という小さな社会に

おいてさえ

「派閥」はできる

 

「誰々さんとは馬があわない」

云々

 

皆口々にそうした不満を

母に言いにきていたが

 

それを否定するでもなく

 

決してどちらかに

与することもなく

 

ガス抜きをしつつ

絶妙にいなしていた

 

 「奥さんが好きだから

 ○○さんを(父)を

 応援したい」

 

と言ってくださる

後援会の方々も多かった

 

 

そうした中でも

きちんと家事をこなし

食事の支度も

怠ったことはなかったように思う

 

当時は祖母が

元気であったことも大きい

 

父はよくいえば

まっすぐな男であったが

 

悪くいえば

猪突猛進

 

 

暴言を吐いたり

暴力を振るったり

ということは

決してなかったが

 

そんな猪突猛進の父に

母はいささか

振り回されているようにもみえた

 

 

だが常に

母はあまり自分の欲求を

言わない人だった

 

自分が何を

食べたいとかさえも

 

 

もっとこうならいいのに

という不満をいうことも

少ない人だった

 

「十分良い暮らしを

 させてもらっている」と

 

いずれにせよ

父が職務を全うし

その後病に倒れてからは

たった一人で

父を介護し

母は本当に大変だったと思う

 

父が施設に入り

父の介護から

母が解放された時

 

結婚以来

常に父と自分のために

生活の全てを

献げてきたような

母を労う意味もこめて

 

 

母の戸籍謄本をもとに

台北の母の生まれた場所へと

連れていったときは

 

母も大いに喜んでくれた

 

 

もちろん

見る影もなく

近代化していたが

 

 

香港に来てすぐの年も

一度母を香港へ連れてきている

 

あまり好みを言わない母が

めずらしくはっきりと

好きというのが

「中華料理」と

「ビール」

 

 

青島ビールを飲みながら

北京ダックを

「おいしい、おいしい」と

喜んで食べていたのが

昨日のことのようだ

 

 

 

その時は

そんなに香港に長居する気もなく

 

また母もいつまで

長旅ができるかわからないから

 

という思いであったが

 

それから既に

5年の月日が流れた

 

 

コロナで日本に

帰れない間にも

断続的に発生する

数々の金銭の問題から

何度も母を憎みかけた

 

 

縁を切ろうと

思ったことも

一度や二度ではない

 

 

だが

憎みきらなくて

本当によかったと

今、心から思う

 

 

自分の追憶の中の母

 

 

決して不満を言わず

思いやりがあり

「足ることを知る」はずの母が

 

 

変わっていったのは

 

 

 

「前頭側頭葉型認知症」

 

 

という病のせいなのだ

 

 

自分も苦しかったが

きっと

母も母なりに辛かったろう

 

 

 

程度の違いこそあれ

まさに久坂部羊が

描いた通りの世界であった

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だが

母がまもなく入る施設は

個室で、自由度が高く

こちらが頼めば

時折母の好きなビールも

出してくれるという

 

 

 

ゴミ屋敷ではなく

綺麗な環境で

母が心穏やかに

晩酌を楽しんでくれることを

切に願う🍻