早いもので人生四週目に突入。

なにかを掴めども、何者にもなれていない自分に愕然とするよね。

36なんてもうバリバリ自分の好きなことやって、成功して、名声があるもんだとばかり思ってたんだがなあ。

幸せだけど満足しきれていない。実際は思ったより地味だった。

その要因は思ったより内向的だった俺の性格と、思ったより信頼できる人が集まらない俺の人徳と、思ったより芝居に執着する俺の業に集約されるとは思う。

それを知れただけ、まだましかな。

三週目は怒濤の、予想外の人生でした。四週目は果たして何が待つのやら。

せめて楽しめますように。楽しいと思えますように。
立ち位置。だね。

先日見た、自分は書いたけど出てない芝居を見て。
演出というのはやはり必要なのだなと。そしてそれが出来る人材は少ないのだなと。

どうすればそのものが形になるか。パッケージされるか。そういう視点は、能力なのだなと。役割として、仕事になるのだなと。

技術であるけど、才能でもあるのだと。やりたいやつはいるけど、やれるかはまた別なんだなと。

自分にはその部分があり、それは特殊能力として誇っていいことなんだと。


二つ目。

雇われる側は「どうお金をもらうか」を考える。
雇う側は「どうお金を稼ぐか」を考える。

悲しいかな自分の基本思考は後者である。


この二つがわかって、急に視界が明るくなった。

そんな5月。暑い。
なんて言葉があるが、あれは違うな。

あれは受け手側の解釈が正しいかどうか確かめる術がない、もしくは作り手側がハードルを下げるための言い訳だ。

作り手の発信には幅がある。その幅は作り手側も気付いていない、意図していない部分もある。しかしその幅の中にしか正解はない。

正解の受け止めかたが出来ると自分の中に入ってくる。より深く理解できるとセリフひとつで泣けてくる。

もちろんそうでなくてもよい。受け止め方は幅のある一つでも、それについてどう思うかは人それぞれでいい。

最近は作り手側が安易に作りすぎ「面白いだろ?」みたいなアイディアを入れてくることがあるけど、それも幅に含まれてしまう。それは「面白いだろ?」というメッセージになり、それを受け取った受け手の僕が思うことは「姑息だなあ」ということである。

どれがどうというわけではないけど、「紙風船」「カルテット」「キュウレンジャー」「花束を君に」などを通じて思ったことでした。