第三章 氷昆布と双頭の猿

 「こんなんだけどな、俺にもちゃんとした名前があるんだよ・・・」
 酔っ払いのブリキは、そう言って日本酒の一升瓶をラッパ飲みをして、それから激しくえずいた。
 「あの・・・もう飲まない方が良いんじゃないっすかね?」
 「違うんだよ兄ちゃん。これはな?酒の飲みすぎでえずいているんじゃないんだよ?あのな?酒の水分で、ブリキが錆びるのがダメなんだよ。」
 「あぁ・・・水分で・・」
 「だから、酒にやられているってわけじゃないんだ。水分が悪いんだよ。な?」

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氷海岸へ向かう電車はボックス席の車両だった。時間帯のせいなのか普段から空いているのか分からないが、乗客はオレの他にはブリキのオッサンが一人いるだけだった。ブリキのおっさんは一人で酒をあおり、グデングデンになっていたので、なるべく関わらないように遠くの席に座り、流れる景色をボーっと眺めていた。電車は商店街を抜け、住宅街を抜け、やがて深い森の中に入っていった。
 森の木々には、よく見たら顔があり、もっとよく見たら、木々にもイケメン・不細工と色々あるようだった。イケメンの木には、リスや小鳥が集まり、不細工の木には虫がたかっていた。
 植物の世界でも不細工は辛いんだな・・・切なくなってため息をついた時、肩をポンポンと叩かれた。振り向くとそこにはブリキのオッサンがいて、ニコニコしながら一升瓶を突き出してきた。
 コップがないところを見ると、オッサンが直接口をつけていた瓶で、オレにもラッパ飲みをさせる心つもりらしい。
 「すいません。酒は・・・医者に止められてまして。」
 そう断ると、ブリキのオッサンは
 「医者だぁ!?・・・・じゃぁ仕方ねぇな!!」
 と言って、酒をゴクゴクあおり、それから激しくえずいた。

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 「誰も名前で呼んでくれねぇんだよ・・・こんなことなら名前なんていらなかったよ・・・」
 もう何度目か分からないくらい、しつこく聞かされたフレーズが出たので、オレは話題を変えた。
 「今からボク、氷海岸ってトコに行くんで、氷昆布の汁が評判と聞いたんすけど、実際のところどうなんすかね?」
 「・・・汁なんか飲んだら錆びるだろうが!!」
 「・・・あぁ、そうっすね。」
 「・・・汁ですら『汁』ってちゃんと呼ばれてんのによ・・・」
 「あの、それなんですけど・・・お名前、何て言うんですか?」
 「俺の名前か?へへへ・・・兄ちゃん、良い奴だな。ほら、飲め!」
 「いや、だから医者に・・・」
 
 そうこうしているうちに、深い森の真ん中の駅に着き、オッサンは名残惜しそうに降りていった。車窓から見るとオッサンは虫にたかられていて、ふいに切なさに包まれた。どうしてオレはあんなにもオッサンの酒を拒んだんだろう・・・・その切さも、電車がトンネルに入り、そしてトンネルを抜け、氷海岸につく頃にはすっかり消えていた。

 氷海岸、そこはまるで時間が止まったように全てが凍り付いていた。木々も建物も、砂浜も岩も、そして海も、海から顔を出そうとしている太陽ですらも凍り付いていた。

 駅で車掌さんに、氷昆布の汁を出す店を尋ねたところ、今日は火曜日なんで全て閉まっているとのことだった。なんでも組合の決まりで火曜日はどこも定休日になっているとのこと。組合の決まりなら仕方ない。実際のところオレもそこまで汁を飲みたかったわけでもない。しかし長いこと電車に揺られ腹が減って仕方ない。汁はいいので、どこか飲食店は無いか聞いたら、郵便局の横のラーメン屋さんがやっているという情報を得た。そのラーメン屋さんは美味いのかと更に聞いたら、「少なくともチャーハンは不味い。」と言われた。

 そのラーメン屋さんは券売機で食券を買うシステムの店舗だった。その券売機の前で女の子が一人困っているようだった。女の子が困っている様子を眺めるのもなかなか乙なものではあったのだが、いい加減腹が減っていたし、そうでなくてもオレは紳士なので声をかけると、振り向いたその子はユザメちゃんだった。世界中でたった一人のオレだけの女の子、ユザメちゃんだった。右も左も分からぬ遠い遠い氷海岸で、二度と会えぬかもしれないと思っていたユザメちゃんと、オレは、こうして奇跡的な再会を果たした。

 感謝知らずの女が、オレの携帯を間違えて持ち去ったあと、異変に気がついたユザメちゃんは自ら携帯の外へと抜け出したそうだ。そうして出てみたはいいが、自分がどこにいるのかすらも分からない。聞くとここは昆布が名物らしいので、当面は昆布を採取・販売して生計をたてながら食っていこうと決めたのだ。だが、勝手に昆布を密漁するわけにもいかないので、その許可を求めるべく漁業組合の事務所を探すも見つからず、そうこうしているうちにお腹が空いたので、このラーメン屋さんにたどり着いたのだとキラキラした目をしながらオレに説明した。

 オレは感動した。まだほとんど何も知らないと思っていたユザメちゃんが、昆布を採るために漁業組合の許可を得ようと頑張っていたのだ。すごいなユザメちゃん。えらいなユザメちゃん。愛おしさが込み上げてきて頭をワシャっと撫でると、くすぐったそうに目を細めて身をよじらせた。

 券売機の『店内』と書かれたボタンを押して、ユザメちゃんのワンタンメンと、オレのタンタン麺大盛りと、二人で食べるギョーザを一皿と、瓶ビールと、それから、どんくらい不味いのか逆に気になったので半チャーハンの食券を購入した。
 ユザメちゃんは、成人しているという設定なのでビールを飲んでも何の問題もない。お互いのグラスにビールを注いだあと、再会を祝して乾杯をした。
 餃子を食い、麺を食い、ビールを飲みながら二人で色んな会話をした。色んなモノに興味を持ったユザメちゃんに、色んなことを教えてあげた。これは胡椒だよ。これはラー油だよ。これは爪楊枝・・・出口の詰まって出てこない醤油挿しも、薄汚れた灰皿も、周りの全てがユザメちゃんにとっては未知のモノであり、彼女を包む世界そのものがまさにワンダーランドだった。
 件のチャーハンは、ご飯がなぜかカピカピで味がしなく、思いの他の不味さに二人して笑っていると、ポケットの中で携帯が震えた。メールの着信があったようで、開いて見ると、
『差出人・角刈り 題名・なし 本文・逆さ墓場に着いたら連絡くれたし』
とあった。ユザメちゃんがふと寂しそうに、
 「お兄ちゃん、私、おうちに帰りたい・・・」
 と呟いた。
 きっと、この『逆さ墓場』という所に感謝知らずの女は現れるに違いない。オレの携帯・ユザメちゃんの『おうち』を持って。
 暗い顔したユザメちゃんの頭をポンポンし、店員の兄ちゃんに逆さ墓場の場所を聞くと、それは海の向こうにあるらしい。幸い、ここは海が凍っているので歩いて向こう岸へは行けるのだが、途中太陽を絶対に起こしてはならないのだという。
 
 進むべき道は決まった。ラーメン屋さんを出たオレはユザメちゃんの手を取り、氷海岸の凍った海へと踏み出した。
 古いボートの上にいる生き物がじっとこっちを見ていた。アレは何?と聞くユザメちゃんに、
 「あれは双頭の猿だよ。ほら、頭が二つあるでしょ。」
 と教えてあげた。
 先は長そうだけれど、ユザメちゃんに色んなことを教えながら進もう。幸い世界は言葉で満たされている。

                     第四章 ケーブル長屋とロストマンへ続く