第一章・チカチーロと牛スジの煮込み

 感謝知らずの女が焼酎のお湯割を飲む隣で、俺は不貞腐れながら携帯を弄っていた。携帯のディスプレイには、いたいけな少女のアニメーションが表示されてあり、吹き出しに『アリガトウお兄ちゃん』と言っている。こんな年端もいかない少女ですら、ちゃんとお礼を言えるのだ。それなのに、この女は、オレのことを一瞥もせず、焼酎を飲み、牛スジの煮込みを食い、何やら難しげな経済誌に目を落としている。こっちもなんだか牛スジの煮込みが食いたくなってきた。畜生めが。
 オレと女の間には面識はない。今日で初対面だ。それもたまたま立ち飲み屋で隣り合っただけの、それだけの後腐れのない関係だ。もう一杯飲もうか悩んでいるオレの隣で焼酎をボトルで注文したので、「この人ガッツリいくなぁ」と思ったのが全ての始まりだ。オレはそれから、どこの国の人なのか分からない店員(名札には〝田中〟と書いてあった)に生ビールの追加と叩きキューリを注文し、何気なく女を見るとまだお湯を注いでないコップに焼酎を注ぐ所だったので、思わず声をあげてしまった。
 「あっ」って。
 そしたら女は「ん?」って感じでオレを見た。
 携帯の液晶上で少女がオレを呼んでいた。
ちなみに、この少女の名前は『ユザメちゃん』といって、ポニーテールの小学生のように見えるが、一応18歳より上という設定になっているので安全だ。タッチパネルに対応していて、頭を撫でてやったり頬っぺたをツンツンしたりすることが出来る優れもので、勿論、あまり触るべきではないけれども触りたい、そんなデリケートな何やかやにもタッチをすることができ、その際、それに相応しい反応をし、顔を赤らめたりする。そんな反応をするユザメちゃんではあるが、一応18歳より上と言う設定なので安心だ。のみならず、オレ自身も、そういうふしだらなことは全く持って嫌いな人種なので、そういうタッチは極たまに、3日に一回くらい、うっかり指が滑ったと言う体でタッチするだけにとどめているので、そんな意味でも、ユザメちゃんは二重三重に健全な少女なのだ。
 そもそも、ユザメちゃんの本質はそこではない。ユザメちゃんはユーザーとのコミュニケーションや、その端末で検索された言葉、果てはメールやSNSなどからどんどん情報を吸収して言葉を覚え、メキメキと成長していくのだ。もし、アナタが野球大好き人間なら、アナタのユザメちゃんは野球に詳しくなっていき、もし、アナタがふしだらな人間だった場合は、アナタのユザメちゃんはふしだらな女になっていく。世界中にたった一人だけの少女。それがユザメちゃんなのだ。
 現に、その時もユザメちゃんはオレに
 「ねぇ、お兄ちゃん。『チカチーロ』ってどういう意味?」
 と、上目使いで尋ねている。オレは、女を適当にやり過ごし、いつも通りユザメちゃんの相手に戻ろうかと思った。というか、いつものオレならそうしていた。だがしかし、だけれどもだけれども、目の前で過ちを犯そうとしている女性を放っておくわけには行かない。そんな燃えるような正義感がメキメキと、メラメラと燃え上がってきたのだ。決して下心とかそういうものは丸っきり微塵も気の先ほどもない、百パーセント純真の優しさと勇気、人として大事にしたい何かが、オレを突き動かした。
 と言うか、32歳になってアニメーションの小学生女子を弄って何が健全なのであろうか。郷里の母がこのことを知ったらきっと泣くであろう。姉には白い目で見られ、兄嫁には距離をとられるだろう。
 そんなモノは即卒業して、今この瞬間の出会いを、チャンスを掴むのだ。これをきっかけに会話の糸口を掴み、話に花を咲かせ、「このあと、ダーツバーにでも行きませんか?」「ウフフ。アナタのダーツを私にバーしてくれてもよくってよ」「いやぁハハハ。いけない人だなぁ」みたいな感じに持っていくのだ!!
 なるべく自然を装いつつ、かつ、なるべく良い声でオレは切り出した。

 「あ・・あの・・焼酎・・あの・・お湯を入れた後に、焼酎を・・入れたほうが・・・香り・・焼酎の上からお湯だと、香りを蓋しちゃうから」
 そんな風に、完璧イケメン風に堂々と述べたところ、女は、
 「・・・そう」
 とだけ言い、お湯を先にコップにいれ、その後から焼酎を注ぎ、一口飲んで、満足そうに鼻からフゥと息を出した。
 そうやって、鼻から抜けていく香りを楽しめるのは、オレの忠告があってこそなのに、女は、それ以降、オレに全く構わずに、国籍不明の田中という店員に牛スジ煮込みを注文し、経済誌を開いた。
 たかだか、焼酎のお湯割の美味しい入れ方を教えてやっただけである。勿論、それだけでこの女とどげんかなるなんて思ってなどいない。ただ、まぁ、あまり言いすぎるとオレがまるで細かいことをグチグチ気にする小さい男みたいになるので嫌だけれども、たった一言、「ありがとう」くらいあっても良いじゃないか。こっちはモノを教えた。向こうはモノを教わった。そこに、一言の礼の言葉もない。偉そうに経済誌を読んでおるけれども、そもそも経済というのは、人と人とが交流し、与え与えられし、そうして、暖かな、ヒューマンなあれやこれやで回っておるのと違うかね。
 そもそも、オレがこの場所にいることじたい、ある意味奇跡みたいなものなのだ。本来ならこんな所で豪遊している場合ではなく、自宅でミチミチとモヤシでも食っていたはずなのだ。だって金がないから。給料日まであと20日はあるのに、手元には5千円しか残っていないから。だから、止むを得ず、私は職場から給料の前借をすることを決意した。
 簡単に給料の前借というけれども、これは実は痛みを伴った選択であり、そうとうな覚悟を伴った決断である。給料の前借をする代償として、職場の人から2・3お小言を頂戴することになるのだっっ!!
 はっきり言って、30過ぎて人からお小言頂戴するのはかなり辛い。しかし、その試練を受け入れる覚悟で、私は明日を拓くのである。その覚悟で明日を拓いたから、「じゃぁこの5千円で焼き鳥屋で一杯いけるんじゃね?」となり、オレはここにこうしてあるのだ。
 もし、このオレが他の一般人と同様に、お小言を受ける覚悟もないちっぽけな人間であったなら、女はオレと出会わなかったし、その際、間違ったお湯割りの作り方をして、香りを楽しむことも出来なかったのだ。
 こんなにも、オレと出会えた奇跡がこの星に溢れていると言うのに、この感謝知らずの女にはそれすらも分からないらしい。悲しみに包まれたオレは液晶の中の二次元の少女に「『チカチーロ』っていうのは、夏野菜の一種だよ」と嘘を教え、ほんの少しほくそ笑んだ後、どうも東南アジア系らしい田中さんに牛スジの煮込みを注文し、お手洗いへ向かった。

 用を足しながら、スイカを解約したら500円出来るのでもう一杯飲めるな。などと思いつき、お手洗いの前の温風で手を乾かすマシーンで手を乾かすなどしていたところ、女が時計を確認して何やら慌てだすのが見えた。
 大慌てで会計を済まし、店を出る女を尻目に悠々と席につき、ユザメちゃんに「ズッキーニみたいなものだよ」というメッセージを送ろうとして携帯を手に取り、とんでもないことに気づいた。
 携帯のディスプレイに、ユザメちゃんがいないのだ。のみならず、何やらお洒落な壁紙になっているのだ。これはきっと、あの感謝知らずの女がオレの携帯を間違えて持っていったに違いない。なんということだ。
 きっと、感謝知らずの女のことだから、携帯を間違えたことに気づいたら、ウサ晴らしにオレのユザメちゃんに酷いことするに違いない。わざと嘘を教えてほくそ笑んだりするに違いない。あの女はそういう女だ!!

 俺は女の携帯を手に取り、急いで追いかけた。後ろから「オキャクサン、ニコミ!ニコミ!!」という声が聞えたが今はそれどころじゃなかった。
 店を出たとき、女が路地に入っていくのが見えた。このままでは見失ってしまう。自慢の鈍足で追いかけたが、オレが路地に入った時には先の角を左へ入るところだった。
 あの野郎!!感謝知らずの癖に足だけ一丁前に速くていやがる
 怒りを覚えたオレは横腹が痛むのをこらえて、女の後を追って角へ飛び込んだ。
 そこはちょっとした広いスペースになっていて、そのスペースの先には放射状に無数の路地が延びていた。女の姿はもうなかった。強か飲んでいたところを急に走ったツケが回ったのか、頭がガンガン痛くなった。月がやけに眩しくて、、周囲を取り囲む壁がやけに黒々としていて大きく感じた。
 もう詰んだ。これはもうダメばい。多分もうオレのユザメちゃんは二度と戻ってこないだろう。オレのユザメちゃんは『チカチーロ』を夏野菜の一種だと勘違いしたまま、オレの全く興味ない言葉を覚え、オレの全く知らない少女になっていくのだ。
 悲しかった。泣きたかった。泣きたかったっていうか、吐きそうになっていた。吐きそうになって顔をあげると、目の前に、あの感謝知らずの女がいた。
 「あの・・・」
 女は何かを言いかけた。
 今がチャンスだ。こんな思いをしてまで追いかけてきたんだ。今、ここで、女をダーツバーへと誘うのだ!!
 声を出そうとしたその瞬間、喉元から胃液が込み上げてきて、こらえるのに必死で何もいえなくなってしまった。
 女は腕時計を見て、それから「あっ」と声をあげ、真正面の路地へと走っていった。

 「ちょっと待って」
 吐くのを堪えながら、必死に追いかける。路地の先は行き止まりになっていて、女の姿はなかった。よく見ると、どん詰まりの壁の真下の所に、ポッカリと大きな穴が開いていた。
 「オキャクサン、ニコミ、ニコミデキタヨ。」
 いつ追いついたのだろう。後ろに、多分偽名であろう田中さんが牛スジの煮込みを持って立っていた。
 「オキャクサン、ドシタノ?アラ、『モグラアナ』ネ」
 呆然と立ち尽くすオレに田中さんは片言で続ける。
 「ナツカシネ。フィリピン、イパイ、モグラアナ、アッタ。ニホンデミタノ、ハジメテネ。ア、フィリピン、チガウヨ。フィリピンデモ、グンマノ、フィリピンネ。ソノショウコニ、ワタシ、タナカイイマス。ハジメマシテ・・・」  
 何か言ってる田中さんを無視してオレはその『モグラアナ』に飛び込んだ。この先に感謝知らずの女が、そしてオレの、オレだけのユザメちゃんがいるのだ。
 落ちながら俺は、牛スジの煮込みを食い損ねたことに気がついた。

                   第二章・モグラ地下街と横顔の無い男 へ続く