WHO'S BAD!? もちろんBAD=COOLなわけで、アルバムタイトル曲はもう一度世間に「実際問題誰が一番イケとんねん?マイコーちゃうんかいゴルァ!」と問いただす曲であったはずだ。その何回目かの「名刺代わりの一曲」はマイケルのカムバックを多いに盛り上げたし、同曲のビデオはやはり俺の記憶に爪痕を残していった。なぜならそのビデオはRUN-DMCやBEASTY BOYSを横目で観てた程度の俺が初めて真正面から見た「ヒップホップ的な世界観」だったからである。「ニューヨーク的な」と言い換えてもいい。地下鉄、グラフィティ、不良少年。俺はそのビデオの世界観に不思議な魅力を感じていた。





しかしそこからすぐにヒップホップに浸かったわけではなく、しばらくは日本のバンドを聴く日々が続いていた。俺は千葉の田舎の強制坊主の中学で腐っていた。爆発したバンドブームが徐々にしおれて行く様を目撃しながら中三になり、そのうち俺はゆるりと中学を卒業した。俺は狭い地元から街に出たかったので都内の学校を選び、上野や池袋や渋谷などに用もなくたむろするようになった。周りはスケーターとダンサー。チーマー全盛期に高校生になった俺たち世代はなかなか面白い時期の渋谷を経験できたんじゃねーかな。今思うとギャグだぞあんなの!バブルってすげーよ。そんなありえない時代に俺はBボーイになっていったわけだ。





俺は世代的に当たり前のようにボビーブラウンやMCハマーからヒップホップに入っていくんだけど、それもこれもバンドブームの後に来たダンスブームが大きく関係している。疑う余地もない、俺の十代にはダンスブームがあった。昨日までバンドをやってたやつがいきなり休み時間にダンスし始めたわけ。テレビ的にもゴールデン枠で若者にダンスをさせ競わせる番組や、深夜枠でクラブから中継する番組などとにかくいろんな番組があったね。マスコミがダンスを通したクラブ文化、黒人文化をなぜか猛烈にフォローしだした時代。俺はといえばとにかくブラックミュージックのCDをレンタルしまくって耳に流し込みまくっていた。





その頃のCDショップにはジャンル分けがほとんどない。ブラックミュージックに至ってはヒップホップもR&Bもレゲエもハウスも「ブラックコンテンポラリー」という謎の言葉で一緒くたにされていた。知識のない俺は一枚一枚のCDを来る日も来る日もひたすら吟味した。BOB MARLEY、EPMD、STEEL PULSE、JUNGLE BROTHERS、FISH BONE、LL COOL J、PUBLIC ENEMY、2 IN A ROOM、INNER CIRCLE、MASSIVE ATTACK、PM DAWN、technotronic。これは好き、これはキライ。これはヒップホップ、これはちがうっぽい。16、17。徐々に耳を育てていった。そして当時俺の日課だったことがもう一つあった。ビデオ録画である。VHSですよあーたVHS!





俺の実家は千葉テレビの電波が入るんだけど、当時千葉テレビでは夜中とか夕方とかにプロモーションビデオダラ流しの番組がやってたんだ。曜日によって洋楽だったり邦楽だったりするんだけど気になる映像は全部録っていた。情報に飢えてたんだな俺は。特にヒップホップを感じる映像はほんのちっぽけなものまで見逃さなかった。そんな頃にまたマイケルがアルバム「DANGEROUS」とともにカムバックしてきた。前述の番組で先行シングルの「BLACK OR WHITE」のビデオが流れた時俺は当然のように録画ボタンを押した。ビデオの中でマイケルはいつも通り軽やかにセットの中を舞っていた。だが...「黒も白も関係ないさ」と歌う彼の肌は今まで見たどの彼よりも白かった。や、いーんだけどね。うーん。的なね。





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あと少し続く!