始める前にNITRO CAMP '08に来てくれたみんなありがとー!愛してるぜー、また来いや!ほな始めまひょ。







千葉に市川GEOという箱があった。古いライブハウスだったがそこそこのキャパで夜間営業もしていたので都内からライブしに来るアーティストも多かったし、ツアーにここを組み込むアーティストも多かった。俺達も時々呼ばれてライブすることがあったな。ある時期はトラが月一くらいのペースで呼ばれていた。旧知のイベンターがいたのだ。


そのイベンターはHOT CONNECTIONという千葉のラップグループで、メンバーの中には現DA BONGZのJAH GODとBASE、そして当時はまだDELIVERLYと名乗っていたミキ君こと御存知DELIがいた。この頃のミキ君は今と全然見た目が違ったんだぜ。パーマかけっぱなしで伸ばしっぱなしの髪をタムに収めて、これまた伸ばしっぱなしの髭を蓄えてカラカラと笑うミキ君は一見しただけでも普通じゃない空気を出してた。いい意味でね。


そんなミキ君が俺達とつるむのにそれほど時間はかからなかった。俺的にはタメだし千葉繋がりってのもあったのでこの新しい登場人物に独自のシンパシーを感じてたんだ。もちろんトラの昔からの知り合いということもあったけど同時にミキ君はケイボムとも仲が良かった。そうともなるともう俺達が繋がらない理由は何もなかった。ちなみにそのリンクは「PASS DA POPCORN」に繋がってゆくことになる。


もちろん俺達としてもただ友達の友達って言う理由だけでつるんだわけではない。ラッパーとしても「出来る男」だったのだ。当時HOT CONNECTIONのライブも幾度となく観たが、彼が歌う番になると急にトラックが「立つ」ような感覚を憶えたもんだ。リズム感がいいんだな、トラックが生きるラップだったってことよ。そして何よりも声が凄かった...M.O.P.かっ!ってくらいの異常なテンションでグイグイ迫ってくるラップはちょっと他に被る者がいなかった。それでいて恐らく彼はラップを始めて一~二年くらいだったはずだ。


俺は都立大の部屋を引き払って一時的に実家に帰っていた時期だったので、江戸に出る際に車に便乗させてもらったりしてた。俺の地元は野田でミキ君は松戸だかんね。それに俺達の出向く場所はどうせ一緒だった。渋谷マンハッタンレコードである。当時俺達はいつでもマンハッタンの倉庫である三階にいた。当時そこの倉庫番であったITA-CHOに可愛がられてた俺達は自由な出入りを許されていたのだ。


当時の活気ある渋谷レコ村のど真ん中の地上三階に陣取った俺達は行き交うヘッズをいつも上から眺めてチルしてたもんだ。ミキ君は一応大学に席だけ置いていたのでそれを理由に都内に出て来て、ひたすら俺達と渋谷にいた。ちょうど彼はソロでやっていくビジョンを持ち始めた頃で、トラックも作る彼としては渋谷はトラックのネタ探しに来る街でもあったのだ。そうやって彼は徐々に「BURNIN'」を作っていった。


そんな頃マンハッタンレコードに前川という男がいた。RIKOがパーソナリティを勤めていたラジオ番組「HIP HOP JURNEY DA CYPHER」にも出演していた彼は俺達とも顔なじみであり、ただの一レコード屋の店員という枠を飛び越えて当時の渋谷発ヒップホップのキーマンでもあった。そんな前川はマンハッタンレコード内にレーベルを作ってリンクのあるアーティストをそこからデビューさせるというビジョンを持っていた。


そして白羽の矢が俺達の集まりに立ったのだ。前川はいろんなビジョンを持っていたがとりあえずマッカ、トラ、シモの三人をアナログデビューさせる計画を持ち込んで来た。マンハッタンは本社の三階にスタジオを持っていたのでそこが俺達の新たな溜まり場となっていった。そうして出来たのが7inch盤「REQUIEM」である。この曲は俺達ファミリーの最初の一歩であり、記念碑的な存在となった。


だがここで問題が起こった!俺達はグループ名を持っていなかったのである。そしてそれを持とうとしないままにレコーディングをしてしまうほどに俺達は勝手で無茶苦茶だった。しかし商品として流通させるためにアーティスト名は記載しなければならない。だが結局グループ名はあやふやなまま「REQUIEM」はリリースされてしまう。一般的にアーティスト名が記載されるアナログ盤のレーベル面にはマッカが考えた「キャッチコピー的な何か」が記載されていた。


REQUIEMはレコ村でなかなかの好評を得ていた。そしてそのシングルを手にする人が増えてくるとともに俺達は新しい名前で呼ばれだした。マッカのアイデアである「キャッチコピー的な何か」をグループ名だとシーンは勘違いしたのである。その謎の言葉こそが「NITRO MICROPHONE UNDERGROUND」であった。思いがけず新たな名前を一方的に付けられた俺達は最初それに反発した。「なんだよ勝手にみんなニトロとか呼びやがってよー」「つーかグループ名じゃねーし!」などと俺達はボヤいたもんだ。


しかしリスナーが勘違いするのも当たり前の話である。だって曲名以外に記載してあるのがグループ名だってそりゃ誰だって思うわさ!無理もねーし。逆にシーンに受け入れられていくたびにその望まないグループ名に徐々に馴らされていったのだ。シーンは俺達をそう呼ぶしかなかったのでしかたない。完全に予想外だったが...要は俺達は受けたんだな。主に雷イベントなどで「NITRO MICROPHONE UNDERGROUND」名義で俺達はライブに呼ばれるようになっていく。この頃にはミキ君も一緒にステージに上がるようになっていた。


そして前川の次のビジョンはクルー全員がマイクを回す曲をリリースすることだった。ライブ感を重視するためにUSのヒップホップクラシックのオケを使い、しかもラッパーが変わるたびにオケもどんどん変わっていくという演出もみんなで考えた。そして紆余曲折を経て運命の一曲が出来上がった。「LIVE'99」である。DELI→SUIKEN→DABO→MACKA-CHIN→GORE-TEX→XBS→S-WORDとマイクが回される同曲は当時の俺達のライブでも出だしの掴みとして重宝され、同時にプロモのみに収録されたためレア盤として認知された。







...はいーーーーーー。DELIちゃん登場の巻!来たね来たね~。この頃ミキ君と出会ってなかったら俺達の運命も変わってだろうなあ。俺達の曲にDELIが入ってなかったらって想像してみ?ちょっとパンチ弱いでべー。上記のLIVE'99もそうだが俺達の曲は一番手にDELIが歌う曲が多い。そこでリスナーはもう掴まれちゃうわけだ。それがあって残りのメンツにも耳が傾く。ありがたや~!いやマジで。


コネならあるがそれを上手く使えず燻っていた俺達に訪れた転機が今思えばミキ君の登場だったのだと思う。彼の勢いと言うかなんと言うか...前向きなエナジーにあてられて俺達も気合いが入った。そしてメンバー間の「負けられねー」的な切磋琢磨にも油を注いだと思う。結果的にグループのためになることが多かったんだなー。


もちろんそれは今でも変わらない。彼はアイデアマンだしいつでもいろんなことを企んでるパワフルなアーティストだ。それでいて裏街道事情に詳しいストリートスマートでもある。要は「頼れる男」ってこと。昔も今もどっしり構えて動じないのは変わらないね。君達にも俺達にもなくてはならない男なのである。そーだろ?マチガイナイ!


よっしゃー、ここまでで七人だ。俺達の凍えた心は徐々にその氷を溶かし、むしろ燃え始めていた。このまま行くとこまで行っちまいそうな勢いだったがそうは問屋が卸さない!一番若くて一番でっかいあいつが最後の最後でグループに滑り込んでくるのである。時は'99!次なるドラマを待て!ブラッッッッ!!