今では考えられないことだが90年代当時はFMが熱かった!


エゴトピアが発売される95年以前にはもうTFMで「ユウザロックのヒップホップナイトフライト」が始まっていたし、さんぴんCAMPをはさんで97年にはJ-WAVEにてRICOをメインパーソナリティに据えた「DA CYPHER」が、99年にはTFMでジブラとケンボーを中心とした「BEATS TO THE RHYME」が始まる。そのどれもが俺の耳を釘付けにしたものだ。俺はすでにクラブ内サイファーで名前を売りつつあり、同じような立ち位置だったスイケンやマッカチンやゴアテックス、XBS、S-WORDなどとのリンクが固まってゆく時期。俺たちはみんなペイジャー&雷ヘッズとして繋がった。だが俺以外の後のニトロ組はライムスターの動向にはいまいち関心を示していなかった。なんでわかんねーかな~、と一人アタマを悩ませたものだ。ま、好みの問題ね。


さあ、そろそろ「さんぴんCAMP」に話を向けていこう。


それ以前に始まっていたラジオ番組は「ナイトフライト」だけだったことはさっきも書いたが、この番組がそれこそ文字通りさんぴんへの滑走路として機能していたことは疑う余地もない。シャカゾンビ&ブッダブランド=大神の「大怪我」のPVを観たことがある人間ならばその中でナイトフライトの収録風景を見ただろう。そこには当時のシーンの重要人物がすべていた。冗談ではない。すべて、だ。俺やスイケンやケイボムは放送をカセットテープに録って何度と無く聴いたものだ。そこで教わることが山のようにあった。余談になるが俺が初めて般若や茂千代というMCを知ったのもこの番組を通してだったが、それはまた違う機会に書こう。他にはすでに高木完氏による「HARDCORE FLASH」を長年連載していた雑誌FINEがキングギドラやライムスターなどをモデルとして起用したり、まだNYにいた頃のデブラージによる連載が始まったりとヒップホップ関連の記事を多く掲載するようになる。ヒップホップ関連のクラブイベントは徐々に客でごった返すようになり、特に今は亡き渋谷CAVEの金曜などは大変な騒ぎであった。そのすべてがさんぴんCAMPに向けて盤石の体制を取っていた。


そして運命の日比谷野音。前述のゴアテックスとマッカチンはムロのサイドキックとしてその舞台上にいた。我が正規DJのハヂメもシャカゾンビのバックDJとしてそこにいたと思う。俺はというとゴアテックスとマッカチンの遥か後方ではあるがムロのステージ上でハニカミながら手を挙げていた。それは記録にも残っているので食えてない当時の俺がいかにスリムだったかをその目で確認して欲しい(笑)。


96年の日本語ラップシーンは長年俺が見てきたムロや雷やECD、ソウルスクリーム、そしてライムスターなどに加えてキングギドラやブッダブランド、シャカゾンビという「黒船」までをその懐に迎えて今までに類を見ないレンジの広さを誇っていた。誰もが被らない独自の芸風を持ち、それでいて同じ目標に向けて突き進んでいた。そのムーブメントにおけるひとつの沸点がさんぴんCAMPであったのだろう。そのステージでライムスターは一番意識の高いショーを見せたと思う。この歴史的なステージでこそアーティストはこうあるべきだ、というショー。その場にいたか、さんぴんの記録映像を観た者ならば彼らの「耳を貸すベキ」のパフォームがどれだけ神がかっていたのかを憶えているだろう。あのMC、あのパフォーム。今思えば俺が初めてヒップホップで涙したのはこの時かもしれない。そういうショーだった。


しかし今だから言うが、正直俺は当時あまりさんぴんCAMPに燃えていないヘッズの一人だった。それはアイドル視していたツイギーがそのステージに立たなかったからかもしれないし、あくまでCUTTING EDGEの先導による企画だということが鼻についたからかもしれない。または映画「ワイルドスタイル」の終盤のライブをあまりにも意識し過ぎだと感じたのかもしれない。雨による思わぬ観客動員数の低下が俺を醒めさせたのかもしれない。一言で言えば「こんなもんじゃねーだろ」と思ったのだ。それだけはハッキリ憶えている。語弊があるかな。もっと言えば「もっとうまいことやれたんじゃねーのか?」ということだ。俺があれだけやられた先輩たちの集大成がこれでいいのか?と。だからこういうことだ、「あんたたちこんなもんじゃねーだろ!」そう思ったのだ、生意気ながら。ディスじゃねーよ、ラブだ。


もちろん彼ら出演者側も100%のショーケースになったとは思わなかっただろう。耳と目の肥えた何人かのヘッズもそう思ったかもしれない。だからさんぴんCAMPはゴールではない、あくまでスタートなのだと俺は解釈したのだ。それでいい、それが正解なはずだ。だが世間はそうは見ず、これがある種ゴールであり金字塔であるがごとく騒ぎ立てた。そこに俺は言いようの無い苛立ちを憶えた。なにがわかる!さんぴんというイベントだけを取り出して日本語ラップのなにがわかるんだ、なにも観てないお前らにシーンのなにがわかるんだ!と俺は憤慨した。それが後の俺のデビューへのモチベーションとして働いた気がする。俺は「日本語ラップは、この人たちは、もっとスゲーんだ!カッケーんだぞ!」と叫んでも叫び足りない重度のヒップホップヘッズだった。


その中でライムスターは俺の救いだった。彼らはいつでも客の期待を裏切らなかったからだ。俺はこの頃ライムスにそこを重点的に学んだ。彼らはいつだって浮き足立たなかった。冷静に客の欲しいものを与え、啓蒙しながらも誰より熱く使命感に燃えていた。この頃のシーンの「使命感」とは「ヒップホップを日本に根付かす」ことであった。そのためただの街角のヘッズでさえ重いラジカセを抱えて街を歩き、迷彩柄を着込み、路上でラップをし合って道ゆくパンピーたちにそのライフスタイルを知らしめようとしていたのだ。それがただの青春のお遊びで終わる者もたくさんいただろう、だがライムスターはそれ以上の何かを提示したかったのだと思う。見てくれや言動だけではない何か。さらなる本質へと彼らは向かう。それは「ヒップホップとはなんぞや?」という恐ろしくハードルの高い課題であった。




次で終わろう、最終章その伍へ続く!!