そしてライムスターは傑作「エゴトピア」を発表する!いよいよ彼らの活動のヒップホップ強度はぐっと増しだし、それは日本語のラップで日本人にヒップホップという文化を広めるという当時の彼らが臨んだ課題をクリアする一撃となり、続く次世代への礎の一つとなった。つまりクラシックとなるべく放たれたアルバムだったわけだ。


シローのリリックは壮大なスケールで暴れ狂い、クレバーに毒を吐き出していった。ストーリーテラーとしても本領を発揮し、激昂しながらもクールに筋道を立ててフローしていくラップスタイルを確立した。一方のマミーDはこの頃すでに東京アンダーグラウンドヒップホップのアイコンの一人としてすっかりシーンに認知されており、「最近の若いラッパーは大体ツイギーかリノかジブラかマミーDに似てる」と言われるほどの影響力を持っていた。つまりシーンでも指折りのラップ巧者として認められていたわけだ。


「エゴトピア」の素晴らしさはフレッシュなフローはもとより、リリックの内容や韻の固さ、テーマ選び、そして客演の人選にまですべての方向に向いていた。スラムダンクを始めとするライブ活動で何度も耳にしていた「知らない男」はフックにまさかのボーイケンを起用、下北沢リンクを感じさせる鉄板ビッグチューンへとリニューアルされ物好きヘッズどもを喜ばせた。


そして何と言っても誰もが知る日本語ラップクラシック「口から出まかせ」がフィーチャーされていたことがこのアルバムのヒップホップ強度を引き上げたのは間違いない。キングギドラとソウルスクリームをフィーチャーしたこの曲はライムスターが今や日本語ラップシーンのど真ん中にいることを意味し、と同時にその「シーン」の熱気そのものを世の中に提示したという意味でも計り知れない意義を持った。


その頃にはDOWN THE LINEと名を変えていたスラムダンクディスコも終焉を迎え、シーンの指針は西麻布ZOAで毎週月曜日に行われたさらにハードコアなイベント「ブラックマンデー」へと移行していた。この頃同時期に芝浦ゴールドで行われていた「暗夜航路」からモンスターユニット「雷」が生まれ、ブラックマンデーやその亡き後にリノが始める「亜熱帯雨林」とともに「さんぴんCAMP」に繋がる道筋が出来上がってゆく。


乱暴な言い方になるが初期の「雷」は東京のヒップホップシーンそのものだった。そこにはリノ、ツイギー、ユウザロックにガマ、マーヤンにパトリックがいたし、マミーDやソウルスクリームもメンバーのようなものだった。ネイキッドアーツやメローイエローもやはりそこにいたし、ムロやベンザエース、DJヤスらがレコードを回し、客の中には俺やケイボム、ガリヤの面々などが混じっていた。その空気感そのものが「ブラックマンデー」や「亜熱帯雨林」であり、初期の「雷」であった気がする。


だがこの頃ヒップホップシーンは所謂「冬の時代」を迎えていた。巷の薄っぺらいダンスブームやMC ATの登場、某FM局のパーソナリティによる「日本語ラップ撲滅運動」という嘘のようなホントのことまでが起こり、俺のスターたちの憤慨は頂点を目指し沸騰してゆく。この鬱憤を吐き出すのがブラックマンデーというムーブメントであり、雷であった。さんぴん後の97年に始まったばかりのテレ東「アサヤン」で催されたラップコンテストで優勝をかっさらったのが「雷」と名乗る30人はいようかという集団覆面MC'sだったことはその歴史的証拠であろう。


この頃には「FGナイト」もとっくに始まっていて、俺の記憶が確かならば池袋チョイスが当時の会場だったはずだ。つまり…例のボビーがキャッシャーに立っていたクラブである。ブラックマンデーや暗夜航路と同じくオープンマイクとなっていた同イベントにはライムスター、メローイエロー、イーストエンドを中心にやはりブラックマンデーのメンツもそこにマイクを握りにやってきた。この頃は唄う場所があればラッパーたちは派閥を越えてどこにでも集合していた。というか東京のシーンまるごとがでかい派閥だったと言っても過言ではないだろう。FGナイトには若きリップスライムやバイファーザドーペストも来たし、俺とケイボムもそこでマイクを回したものだ。



まだ続くんだぜー!