下北沢Zooという箱があった。その後SLITSと名前を変えるその箱は例えるならミロスガレージのような古き良き東京のクラブシーンの雰囲気と魅力を称えた小さなクラブだった。ノンジャンルに音楽を愛する宝島やCUTIEの購読層で賑わっていた当時の下北沢は、俺としてはバンド文化と服飾系不思議ちゃん文化、そしてスラッシャー文化(あえてスケーターとは言わない)のイメージが強かった。スパークスビートという小さなヒップホップの洋服屋があったがそれ以外はあまりヒップホップを感じる街ではなかった気がする。


そんな下北沢の小箱、Zooに突然ヒップホップが舞い降りた!ECDとユウザロックがイベントを始めたのである。その名も「スラムダンクディスコ」!これが俺が人生で初めて味わった「歯痒くないメンツで固められた鉄板ライブショーケース」だった。その後「DOWN THE LINE」と名前を変えながら二~三年は続いたのではないだろうか。18の俺はこのイベントで恐らく決定的に人生を狂わされたのだ。


ライブ後にムロやベンザエースなどがDJでかける所謂「ネタ物レコード」にもトバされたものだ。俺は多角的にヒップホップにハメられていった。それこそ客は少なかった。でもそんなほぼ身内のみの中に俺はいて、ただただ目の前の光景を鼓膜と網膜に焼き付けていた。俺という日本語ラップ小僧はこうして感覚を研ぎませていった。初めて日本語のフリースタイルラップを聴いたのもこのイベントだったが、それは当時誰もがチャレンジしないことだったので衝撃だった。


そんな俺の人生を変えたモンスターイベントに出演していたのはもちろんホストのECDにユウザロック、そして後にマイクロフォンペイジャーへと進化していくクラッシュポッセやネイキッドアーツへと名を変えていくスキップス、ソウルスクリーム以前のパワーライスクルーもいたしランプアイやキミドリもそこで初めて確認して戦慄を覚えた。そしてボーイケンやナニワマンなどVIP周辺のハードコアなレゲエ勢が物凄いテンションのラバダブショーを見せた後にメローイエローのライブが始まるようなこのイベントにライムスターの顔がないわけがなかった。彼らはやはりそこにいて、同じ夢を見る同志達と虎の穴の中で牙を研いでいたのだ。


ファーストアルバム「俺に言わせりゃ」はもう出ていたはずだ。つまり彼らの旅は「エゴトピア」へ向かう途中だったということだろう。ECDの「マス対コア」や後の伝説の西麻布ZOA「ブラックマンデー」へと繋がっていくこの台風のようなスラムダンクコミュニティの中で着々とライムスターも次のステージへと登りつつあった。この頃に名前から「オールスターズ」も取れて今も続く「ライムスター」という字面に落ち着いたのだと思われる。彼らは徐々に色物的なギミックを脱ぎ去っていき、タイトになったグループ名同様にストイックに本質に向かいだす。


そしてキングギドラやブッダブランドがそこまで来ていた。そんな時代だ。




…続く!