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さて。

書いちゃうよ。



待たせたな、ライムスターの話だ。


日本語のヒップホップを探していた16の俺がスチャダラパーと出会って、高木完やECDやガスボーイズを知り、そこからさらに次を求めてさ迷っていた頃…。


彼らが現れた。ライムスターオールスターズ。今の三人になる前のごく初期の段階では彼らはそう名のっていた。メンバーはMCシローとマミーDのほかにドクタールーパー、DJチョコレート、ビートボックスのコダマちゃん、ダラダラダンサーズなど(書き忘れてる人いるかも)。今となれば意外かも知れないが彼らは当時のシーンの中でも目立つ大所帯クルーだった。ダラダラダンサーズはただユラユラしてるだけの二人組のステージダンサー。言わずと知れてるライターの大前氏が片割れだった。


当時のUSヒップホップシーンは掛け合いラップの大ブームで、若きバスタを擁するリーダーズオブニュースクールやフーシュニッケンズ、ノーティバイネイチャー、ファーサイド、ローズオブジアンダーグラウンド、オニクスにダスエフェックス、それに若き2パックを擁するデジタルアンダーグラウンドなどが激しく唾を飛ばしていた。


そのノリを日本でいち早く初めていたのがライムスターだったと思う。今でこそ究極にクラシカルなたたずまいのライムスターであるが当時の扱いは完全に「色物枠」。Pファンク的なアティテュードを前面に打ち出していた彼らはそう見られることに辟易しつつも狙っていたフシもあったのではないだろうか。


同じ頃にクラッシュポッセにもすでに出会っていた。俺の中でライムスターオールスターズとクラッシュポッセという二組のアーティストは日本語ラップの原点であった。スタイルとしてのハードコアヒップホップ美学を体現していた前者に対し、後者ライムスターは文化としてのヒップホップをいかに日本語で日本的に表現し得るかという実験に挑戦していたのだと思う。


それはわかりやすく言えばライミングの徹底だった。もう少し時が経ってキングギドラがシーンに登場して日本語のライミングを完成させるまで、俺の中で日本語ラップの教科書はライムスターのリリックだった。そのくらい彼らのラップスキルは当時のシーンでは突出していた。


数々のヒップホップフェスに客として出向いていた俺は、彼らのスキルがグングン上がっていくのを目の当たりにして頼もしく感じたものだ。徐々に彼らは知名度を上げてゆき、ヒップホップのイベントのフライヤーには欠かさず顔を出す存在になっていった。当時の深夜番組「モグラネグラ」に出演したのもこの頃だろう。ちなみに俺は実家にVHSあるぜ!


今も目に焼き付いているのは西麻布イエローで行われた故ファンケンクライン率いる西海岸の新鋭レーベル「ハリウッドベーシック」のショーケースだ。オーガナイズドコンフュージョンとジンバブエレジットをゲストで招いたこのパーティーでフロントアクトを勤めたのがスチャダラパーにクラッシュポッセ、そしてライムスターオールスターズだった。


スチャダラパーが当時のキングとして貫禄を見せつけたかと思えば、クラッシュポッセのステージには名古屋からやってきたメガヘルツMC'sと名乗るツイギーとフロンが参加して恐ろしい気迫のライブを見せた。そして東京アンダーグラウンドの顔となりつつあったライムスターの熱演で客はジャンプ、ジャンプの嵐!三組の前座が主役を完全に食い物にしてしまい、俺の「日本語ラップは来る!ヤバすぎる!」という思いは核心へと変わりつつあった。俺の青春、熱い熱い90年代が始まっていた。



書き切れず続く!

ブラッッ!!