ここ数日なんともやりきれない思いで過ごす。

何でもない出来事の一つ一つをやり過ごす事も出来ず、それは様々な色調や音の響きのようでもあり、痛みにも似て、どれもこれも身に押し寄せ、防御できない。
それは同時に自分自身への認識へと直結する。
四六時中眼の前に大きなカガミを置かれているような居た堪れなさと、不安••••••••••••••••••••••••••
それでも日々は続いてゆく、とゆうこと。


今日、数年ぶりにヴィム・ヴェンダースの『パーフェクト•デイズ』を映画館に見に行った。

ユーチューブばかり見ていたら、この映画紹介をしていて、

主人公の男が初老でトイレの清掃員であり、日々の暮らしに満ち足り、

映画のワンシーンで、
男がふと見上げる先の、木々や壁の映る光の階調を捉えるその眼差しの満ち足りた輝きに特に惹かれた。
そして、これとゆう物語がない、と云うことも弱っている今の自分にとっては。


億劫ではあるが、自宅にもいたくなく、車で出掛ける。

映画のチケットが自動発券機から購入する仕組みになっていて、
障害者手帳を使って窓口での購入の際のやり取りを頭の中で想定練習?していた身には、戸惑いより不安を募らせるたが、
しげしげと、映画館ホール全体を観察して購入方法やルートの動線を把握したのは年の功と云ったところか。
が、あれはチケットというよりレシートのようだった。

『パーフェクト•ディス』の前評判も一定の評価のされ方も知っているから、
敢えてクドクド評価はしないが、

映画が始まって数分で、映画の世界に没入して二時間半はあっと云う間だった。
これをドイツの監督が撮ったとは。

ヴィム・ヴェンダースはアート色の強い監督だと思うが、
どこか異性に対してシャイな感じ、照明や画面作りの色調は彼らしかったが、

それと、主人公が公園のトイレの個室で泣いている男の子を保護し手を引いて外に出たあと、男の子の母親がウェットティッシュで少年の手を露骨に拭うシーンを作ったのは考え深かった。
私はパリテキサスの迄のヴェンダースしか知らないからなぁ。

無口な人は喋らないから無口なのではないとゆう当たりの演技は、役所広司の演技の上手さを個人的に実感した。

自宅に帰ってからヴェンダースの映画インタビューをユーチューブで見る。

[物語]とは怪物でありエレファントのようでもある、ときに[物語]は映画を破壊してしまうこともあり得る。
ディテールすらその要因になりえるが、かつて自身もそうした失敗を映画を撮った事がある。
この映画は難を逃れた。

と言っているのが印象に残った。



主人公が劇中読んでいた文庫

✯ウィリアム・フォークナー『野生の棕櫚』
✯パトリシア・ハイスミス『11のものがたり』
✯幸田文『木』