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孝明天皇の祈り

學館大学教授 松浦光修先生の
メールマガジンから

 

神国日本の蘇り(27)
(『解脱』平成23年3月号)

孝明天皇の祈り

 歴史をかえりみると、天皇の「祈り」は、その時代が、厳しいものであればあるほど、
激しいものになります。たとえば幕末です。

時の天皇は、孝明天皇
(第百二十一代・一八三一~六六年)でした。
明治天皇のお父さまです。

 弘化三(一八三六)年、お父さまの仁光天皇(にんこうてんのう)が四十七歳の若さで崩御され、すぐに践祚(せんそ/天皇がお亡くなると同時に、皇太子が皇位を継承されること)をされます。時に、まだ十六歳というお若さでした。
 けれども、すでにそのころ、日本をとりまく
情勢は、とても危険なものになっていました。

践祚された弘化三年という年にかぎっても、
こういう出来事がおこっています。

●四月……
イギリス.フランスの軍艦が琉球に来航する。
●閏四月...
アメリカの東インド司令長、浦賀に来航する。
●六月……
フランスのインドシナ艦隊司令長官・セシュが
長崎に来航し、デンマークの船が、相模に来航する。
●八月...…
イギリス軍艦が、琉球に来航する。

 そのころ、アジア・アフリカ・オセアニアの、ほとんどの地域は、欧米諸国の「植民地」にされつつありました。そのことを知っていた心ある人々は、外国船の来航が、あいつぐのを聞いて、「いよいよ日本にも、彼らの手がおよんできた」と感じたことでしょう。

 ふと...現代に目を移すと、今の日本も、北や西の固有の領土を奪われたままであり(北方領土、竹島)、新たに南の領土が侵略される危機に直面しています(尖閣諸島)。

ですから、その時代の心ある人々の気持ちが、
ようやく今の日本人にも、少しはわかるようになってきたのではないでしょうか。

 孝明天皇は、そのような時代のなかで、
わが国の行く末を、心から心配され、この年の八月、幕府に「御沙汰書(ごさたしょ)」を
出されています。いわば「命令書」です。

 江戸時代はすべての政治を、幕府が仕切ることが当たり前の時代でしたから、それまで天皇が幕府に「命令書」を出すなどということはあリませんでした。それにもかかわらず、勇気をふるって「御沙汰書」を出されたのは、それだけ孝明天皇が、わが国の行く末を心配されていた、ということにほかなりません。

 そのあと孝明天皇は、伊勢の神宮をはじめとする日本の神社仏閤に、「国安かれ、民安かれ」の激しい祈りを、くり返しささげられるようになります。

 たとえば、安政元年(一八五四年)二月九日には、伊勢の神宮へ「祈り」をささげられていますが。その「祈り」の内容は、

「外国人たちが、日本のいうことを聞いて、帆を翻して、早く帰り、日本が平和でありますように」というものです。


 同じ月の二十二日には、伊勢神宮以下の二十二の神社と、伊雑宮以下の十一の神社に日本の安全をお祈りされました。さらに、この年には、五月と九月にも、同じことをくり返しされています。

 そのような孝明天皇の、お心のうちは、こういう御製(天皇のおつくりになつた和歌や漢詩や文章のこと)からも知ることができます。

「異人(ことびと)と  共ども払へ 
神風や  正しからずと  わが忌むものを」
(文久二年・御年三十二歳)。

歌意はこうです。

「伊勢の神風よ…、日本を植民地にしようとして手をのばしてくる外国人たちとともに、〝まちがっている〟と私が嫌うものすべてを、吹き払ってください」。

 私たちは、しばしば気軽に、「祈っています」と言います。けれども、孝明天皇の祈りは、そういう気軽なものではありません。いわば「命がけ」のものだったのです。
 孝明天皇には、こういう御製もあります。

「わが命  あらむ限りは 
祈らめや  つひには神の  
しるしをもみん」(安政六年・御年二十九歳)。

 歌意はこうです。「私は命あるかぎり、祈りつづける。そうすれば、きっと神々も、私の祈りを、お聞き届けくださるにちがいない」。