むかしむかし、四国のうちでも、伊予の国は浮穴の郡荏原の郷に、右衛門三郎という人が住んでいました。

先祖はみかどのご門を守ったという、武士の家に生まれたのですが、三郎は、金持ちのくせに郷いちばんのけちで、信心のない欲張りものでした。

ある日のこと、三郎の家にひとりの旅僧が托鉢にやってきました。

「かえれー、こじき坊主」
と、けちな三郎は、どなって、旅僧を追い返してしまいました。

しかし、翌日も旅僧がやってきて、また、三郎はどなりつけて、追い返しました。

次の日も旅僧はやってきました。
すっかり怒ってしまった三郎は、旅僧の捧げる鉢を、竹ぼうきで打ちこわし、鉢は八つにくだけて飛びちってしまいました。


すると、どうしたことか、次の日から毎日一人ずつ、三郎の子供が次々に死んでしまいました。

これには、さすがの三郎もすっかり悲しみにしずんでしまい、その因縁を深く考えこみました。
そして、あのときの旅僧は、名高い僧の空海というお坊さんだったことに思いあたりました。


それから、三郎は、おのれの罪深さ悔い、空海にお目にかかってお詫びしたいと、巡礼の旅に出たのです。

しかし、四国を二十一遍もまわっても、三郎は空海にめぐりあうことができません。
そして、四国一の難所といわれる焼山寺のふもとで、三郎は病いに倒れてしまいました。

すると、息もたえだえの三郎の前に、一人の旅僧があらわれました。
そして
「わたしが空海です。あなたの罪は、四国遍路の功徳で、すべて消えました。なにか最期のねがいはありませんか?」
と、やさしくささやかれたのです。
ようやく空海にめぐりあえた三郎は、最後の力をふりしぼって、
「どうか、わたしを本家の河野の世継ぎに生まれかわらせてください。」
といって、こと切れてしまいました。

空海は、かたわらの小石に
「右衛門三郎再来」
としたため、三郎の手に握らせて、ねんごろに供養されました。


月日は流れて、松山の城主河野息利に男児が誕生しました。
その子は、左手に小石を握って生まれてきたのです。みると、その石には
「右衛門三郎再来」
と書かれてあります。

息利は、これは弘法大師のご利益にちがいないと考え、道後温泉の安養寺にこの石を納め、寺号を(第五十一番礼所)石手寺とあらためました。
そして、三郎がお遍路さんの元祖とされるようになったということです。