大河ドラマでとても良かったと今でも思う「風林火山」
井上靖の描く「山本勘助」が、諸国を放浪して築き上げた兵法を使って、はじめは甲斐武田を討とうという強い意志と怨みを宿す。
身重の妻を武田の当主、信虎に惨殺されていたのだ。
晴信(後の信玄公)との最初の出会いで、その恨みを見抜かれ
「怨みでは、この武田は討てぬぞ!」
「大望無ければ、怨みを晴らしたとて、なんになる」と言われるシーンがあった。
<span style="color:#0000ff;">https://youtu.be/-lDXIPxbIqM?t=24m40s</span>
このあたりの言葉は、主人公の活躍を予感させるもので
ドラマを見る側に大きな期待を呼び起こす井上靖渾身の台詞でもある
それを、いずれは仕えることになるその主君直々に語らせた。
その怨みは、山本勘助がその名の通りの桀人になるために越えねばならない峠なのだ。
<人には何かしら克えるべきものがあるのだろうと思う>
「絶望の中から大望はうまれる」とも・・
それでも
この物語では、彼に怨みは解消はしていないのだが、状況が変わってゆくことで、勘助も怨みの先を生きるようになってゆく・・
--- そこで、我が本心をすこし書いてみる ---
自分の場合、友人身内を洗脳され、日々苦衷にあるこの身だが
その洗脳はまったく硬く、取り付く島もない
思えば、ひどい宗教団体であろうと、入信する者は絶えず
地下鉄サリン事件を起こしたような教団さえいまだに解散もしていない。
ものみの塔といえば、あそこまではっきりとした悪業では知られていないから、大きな波乱があったとしてもどうなのか?
ものみの塔という宗教から出たくても出られない方々も多く、そのために微力を供するのならともかくも
どっぷりとあの宗教の正義感に浸かってしまっている人々を動かすことは、本当に僅かな可能性に懸けるばかりのことで
このごろは、何か非情な限界を感じる。
そこで
これからは、自分のためにひたすら生きようか?
身内であれ、友人であれ、皆がそれぞれの自己責任と判断で、どんなカルトであっても、その道を歩いているのだろうから
それとも、実態に気付くなら、さっさと信じるのを止めるのだろうか?
養老孟司が「バカの壁」で主張したように
結局、人同士が「話せばわかる」なんてことは理想の絵空事で
実際、人間二十歳を過ぎれば、みんな硬~く凝り固まったアタマになっている。
自分のアタマが柔軟だと思う方が、よっぽど硬いのだろうとも思う。
そうでないと生きてもゆけない世の中でもあるし・・
エホバの証人が、「世の人々は心を閉ざし、真理に耳を傾けようとしない」と言うとき、自分自身のアタマの硬さは、まるで眼中にない。
もちろん、都合の悪いことには自分たちがどんなに頑なか、話し合いにおいて公平ないことは棚に上げている。
この世界の正義感も十人十色
その最小公約数のようなもので、社会はなんとか動いてはいるけれど
それを突き詰めると、どうしようもなくバラバラだ。
証人もそのひとつでしかない。かなり傲慢なひとつ。
だから、政治と宗教の話はタブーだし
社会でうまく波にのってゆきたければ、主義主張は出さないことだ。
そこで、まるで考えも正義も一致させたように見えるのが宗教という仮想現実なのだろう。
自分も「兄弟姉妹の一致」に、理想と安心を夢見た。
だが今は
「自分の人生を壊された」という被害者意識をものみの塔に対して
自分は強く持っている。実際、再起不能なところも随分と感じる。
被害者の近くに居ればこそ、強大な組織に刃を向けたいと思わざるを得ない。怨みは無いとは到底言えぬ。
だけれども、自分が証人をやってる最中は親からの反対も、乗り越えるべき「迫害」くらいにしか思っていなかったのだ。
戸別伝道に出ても、ほとんどの人は、無関心か敵意を持つ人も少なくなかった。
そこも、これも、みな、サタンの世の中だからしようがないと思い、せめて自分はしっかりとエホバの証人であろうと決意を固めていたのだ。
その時の自分に、今の自分が話しかけたとしても、まるで聞く耳などなかったろうし、仮に説得に成功しても、昔の自分に、大きな荷を背負わすことにもなったろう。生活のほとんどがエホバの証人で出来上がっていたのだし・・
そして今
自分がエホバの証人に戻ることは考えられない。
それは、エホバの証人という生き方が虚構に基いていることが、人から言われてでなく、何かネガティヴなニュースを知ってからでもなく、自分で理解できたからなのだ。
嘘だと分かっているものを本気で信じて、自分を犠牲にはしないという当然の理由による。
それでも、人間が考える「正さ」というのは、絶対のものでなくて
個人個人の認識次第でどうにでもなってしまう。
だから、自分というひとりの中でも、過去と現在の「正さ」が違っている。
自分がエホバの証人であったことの責任は誰にあるのか?
それは間違いなく、周囲の反対を押し切っていた自分だと思う。
「騙されていた」というのは確かだが、それも突き詰めると、アタマを硬くして「壁」の中に閉じこもったことの自己責任なのだ。
いまさら、「自分が証人であった全部の責任が組織にある」と言えば、それは自己判断能力を全否定することにしかならない。まるで赤ん坊の理屈になってしまう。
だからこそ
自分はこれからも当分は、反エホではあり続けるだろうし、同じ信仰に戻ることは有り得ないと思う。
ではエホバの証人ではない自分とは、どんな自分なのか?
自分の場合、止まったままの25年間の時を戻す必要はなさそうだ。
幸いに、その間にまるっきりのエホバの証人ではなかったからで、正規開拓には遂に一度も入らなかった分、そのせいで差別もされてきたが、十代から常に二本の道を歩き続けてきたから、これはまだ幸いだったと思う。社会復帰の必要もほとんど感じない。これはよかった!
これでまだ何とか息はしてゆけそうだ。しかし、それもやっとのことだ。
しかし、「人生間違えた!」という想いを死ぬまで痛々しく感じながら生きなければならない。正直、これはかなりつらい・・
だから、この想いを他の人にしてほしくない!
そこで、結構な無理をして、証人の近くに住んでいるのだが
だが、周囲の人々、ものみの塔に居るかつての仲間たち(ほんとうに愛すべき)のことは、自分の感情が及ばない「壁」が立ちはだかり、聳え立っていて、恐ろしいことだけれど、それはもうどうにもならないらしい。
これが「人はそれぞれ自分の荷を負う」ということなんだろうか?
自分がなにか働きかけて、誰かの洗脳を解いたからといって、その人は、その人なりの苦しみを負うことになる。
特に、年齢がいっていれば尚更だ。
いや、それでも、後で「何で知らせてくれなかった?」と言われるか?
一応は言うだけの事を言ったなら、もうそれで良かったか?
だが
組織に仇はあっても、中の人々が「壁」のなかに閉じこもっていたのでは・・
今後は、自分のためにだけ生きるか?
半分は諦めの境地で、どこか「遠く」に旅立つ日が
そのうちに訪れるような気がしてくる。
本心を封じての日々になるか
それでも、折あらば・・
自分の信玄公は現れるだろうか?