親たちによる幼児への虐待が絶えない。
圧倒的な力の差がある密閉された中で、人間の陰湿で狂暴な面が出てしまうのだろうと思う。
独裁の強い北朝鮮のような国では、二千万もの人々が、その虐待の中に住んでいるが、外部の情報を遮断され、そこが幸福だと教えられる。
幼児がまったく大人に依存する存在であることに、その大人の思いが利己心にばかり向いてしまうときに、同じようなことが起るのだろう。
どちらの場合も、周囲が気付いてしかるべき手を打つ以外には、ほとんどどうにもならない。
独裁国家からは、命がけで脱出することもできるが、年齢にゆかない幼児にそれは考えもつかないことだろう。親や身近な大人がすべてなのだから。
こうした、隔離されたところで、力ある有利な人間の本性が暴かれる。
これは、占領した軍隊が暴走して、略奪や強姦、殺人、など思いのままにできる状況が発生するときに、起こってきたことだろう。
何をやっても服従するという別の人間がいるところで、勝手になった人間の本当のおぞましさが姿を見せる。
外部の情報を制限した洗脳で信者の確保が成り立つカルト宗教も同じようだ。
聖書にルールを見つけては、「その通りにやれば正しい」と言い張るのは、自分から理性を捨てるようなものだ。
今日と二千年前の生活の質も方法も同じか?
人は、常に新しい物事に直面し、新しい判断が求められている。
それは、書かれて決まりきった規則にしがみ付く幼稚さを離れ、良識を育て、与えられた判断力を伸ばすことで初めてできることだろう。
ものみの塔は、そのように人間性を良識ある方向に伸ばしてはいない。
その教えは、「自分の賢さや判断力に頼るな」というもので、それでいて、「統治体や長老の愚かさは見過ごせ」と言っている。
これで、どうして新しい物事に面して賢く行動でき、「自分の信仰」を責任をもって表明できる信者を育成できるだろうか?
密室で冒される、幼児への性虐待は、この「ものみの塔」の性質そのものではないか?
世間で繰り返される大人による子供への虐待は、その密室性のゆえに焙り出されているように見える。
とてつもないルールの数々!
電灯もなく、体罰が続き、反省文をたどたどしく平仮名で書く毎日、ガリガリに痩せコケても親を信頼する痛ましさ!
周囲良識ある人々が気付くところで、その行動は無理なのだ。
ものみの塔は、近所や公的な機関から、自宅の隠蔽を強行する親たちとどれほど変わるのか?
情報統制し、残虐な見せしめ刑で国民を押さえつけている独裁国家と、どこが違うのか?
答えられるか?ものみの塔?
もちろん、答えない。
なぜなら、その通りだからだろう。
おそるべきことが、こうして繰り返されている。
だが、さすがに宗教団体であっても、周囲の人々が気付き始めてしまった!
裁きの座に就かねばならない。
いや、もう賠償金の支払いで汲々としているのだが
それだけの問題だろうか?
宣教は一切行うべきではないだろうし、離れる信者を無条件に解放するべきだ。
それでも、残る信者から賠償金のための寄付を徴収したらよい。
わたしは、どこか間違ったことを言っているだろうか?
もし、間違えているなら、エホバの証人の誰かに教えてもらいたい。
どこが違うのか?