Film Comment Selects.
NY, Walter Reade Theater at the Film Society of Lincoln Center.
黒沢清の映画は、画面を見ながらつい黒沢清のことを考えてしまう。時に映画そのもの以上に映画監督の身振りの方が気になってしまうのは、黒沢がどちらかというと批評からスタートしていて、観客である自分との距離が近く感じられるというだけじゃなく、映画が隅々までわざとらしく作られていて、そこに批評家(というかシネフィルというか)的なアイロニカルな手付きがプンプン匂うせいだ。実際この新作は何だか学生映画風、しかも黒沢初期の作品を思わせるというより、典型的な学生映画風の「技巧過多」と「情緒過多」という幼稚っぽい側面を誇張して「使いこなし」ながら、しかもそのスタイルでしか語り得ないことを語っていて、だから単なるパロディでも終わっていないし、かといって単なるベタなホラーとか純愛ドラマとかにもなっておらず、見ていてどこまで本気でどこまでギャグなのかわからないという黒沢映画の遊戯性が今まで以上に膨張し、観客にとっては苦痛とも快感ともつかない過酷なゲームと化している。歌舞伎かドリフのようなベタベタな「幽霊」の音楽、完全にシリアスなムードの中で不意打ちのように失笑させられてしまう豊川悦司のセリフ(「右にも死体、左にも死体、どこもかしこも死体だらけだ!」とか、ついに歩き出したミイラに向かって「動けるんだったら最初からそうしろ!」とか)、作為性丸出しのロマンス演出等々は、そのボケっぷりにツッコミを入れる人が映画の中にいないだけでなく、リアクションが徹底的に画面から排除され、あくまでシリアスさが維持されている。つまり「ボケっぱなし」で誰も何も言わないので、それがボケなのかどうかも微妙に怪しく、かといってもはやその滑稽さは見過ごせる程度のものでもなく、観客は感情を「適切に」発散することができずに悶々としながら、イエスとノーを同時に言い続けるこの映画によってニヤニヤ眺められているかのような気分にさせられる(それだからこそこの映画の態度は、感情の「適切さ」(共同性)なるものの放棄を促している、つまり、全くアナーキーに、好きなように心から怖がったり笑ったりすればいいではないかといっているようにも思える。そうすることによって、実はそれが無理であること、虚しい身振りに落ち込んでしまう他ないことを悟らせる。アナーキーな感情への通路を示しつつ封鎖する)。しかし結局この映画の焦点になってくるのは、やはり黒沢清独特の、暗くて壮大な、人の手ではどうにもならないような「必然」を必然としてスラップスティックに描き切ろうとするレトリックで、そこに関していつも(新作を見る度に)物足りなさを感じてしまうのは、要するにその「必然」が何を意味するのかよくわからないからなのだと思う。そしてその不可解な「メカニズム」への認識は大抵、長い時間をかけて記憶の中で沈殿していき、はっきりしたわだかまりとしていつまでも残ることになるのだが。ちなみにジャンプショットや時系列の交錯、安達祐美が不自然な場所にいきなり現れる場面など、清水崇の影響がずいぶん露骨に感じられた。中谷美紀の家の二階へ向かう階段の構造は『呪怨』と同一で、セットもやけに似ている。
NY, Walter Reade Theater at the Film Society of Lincoln Center.
黒沢清の映画は、画面を見ながらつい黒沢清のことを考えてしまう。時に映画そのもの以上に映画監督の身振りの方が気になってしまうのは、黒沢がどちらかというと批評からスタートしていて、観客である自分との距離が近く感じられるというだけじゃなく、映画が隅々までわざとらしく作られていて、そこに批評家(というかシネフィルというか)的なアイロニカルな手付きがプンプン匂うせいだ。実際この新作は何だか学生映画風、しかも黒沢初期の作品を思わせるというより、典型的な学生映画風の「技巧過多」と「情緒過多」という幼稚っぽい側面を誇張して「使いこなし」ながら、しかもそのスタイルでしか語り得ないことを語っていて、だから単なるパロディでも終わっていないし、かといって単なるベタなホラーとか純愛ドラマとかにもなっておらず、見ていてどこまで本気でどこまでギャグなのかわからないという黒沢映画の遊戯性が今まで以上に膨張し、観客にとっては苦痛とも快感ともつかない過酷なゲームと化している。歌舞伎かドリフのようなベタベタな「幽霊」の音楽、完全にシリアスなムードの中で不意打ちのように失笑させられてしまう豊川悦司のセリフ(「右にも死体、左にも死体、どこもかしこも死体だらけだ!」とか、ついに歩き出したミイラに向かって「動けるんだったら最初からそうしろ!」とか)、作為性丸出しのロマンス演出等々は、そのボケっぷりにツッコミを入れる人が映画の中にいないだけでなく、リアクションが徹底的に画面から排除され、あくまでシリアスさが維持されている。つまり「ボケっぱなし」で誰も何も言わないので、それがボケなのかどうかも微妙に怪しく、かといってもはやその滑稽さは見過ごせる程度のものでもなく、観客は感情を「適切に」発散することができずに悶々としながら、イエスとノーを同時に言い続けるこの映画によってニヤニヤ眺められているかのような気分にさせられる(それだからこそこの映画の態度は、感情の「適切さ」(共同性)なるものの放棄を促している、つまり、全くアナーキーに、好きなように心から怖がったり笑ったりすればいいではないかといっているようにも思える。そうすることによって、実はそれが無理であること、虚しい身振りに落ち込んでしまう他ないことを悟らせる。アナーキーな感情への通路を示しつつ封鎖する)。しかし結局この映画の焦点になってくるのは、やはり黒沢清独特の、暗くて壮大な、人の手ではどうにもならないような「必然」を必然としてスラップスティックに描き切ろうとするレトリックで、そこに関していつも(新作を見る度に)物足りなさを感じてしまうのは、要するにその「必然」が何を意味するのかよくわからないからなのだと思う。そしてその不可解な「メカニズム」への認識は大抵、長い時間をかけて記憶の中で沈殿していき、はっきりしたわだかまりとしていつまでも残ることになるのだが。ちなみにジャンプショットや時系列の交錯、安達祐美が不自然な場所にいきなり現れる場面など、清水崇の影響がずいぶん露骨に感じられた。中谷美紀の家の二階へ向かう階段の構造は『呪怨』と同一で、セットもやけに似ている。