Reggie Wilson/Fist & Heel Performance Group, The Tale: Npinpee Nckutchie and the Tail of the Golden Dek

NY, Dance Theater Workshop.
アフリカからカリブ、北米へと至るアフリカン・ディアスポラのダンス文化を主題にしている振付家で、この作品はシカゴ起源の一種の社交ダンス「ステッピング」がフィーチャーされているとのこと。銀色のカーテンに色とりどりの照明があたっていかがわしい雰囲気が醸し出され、ダンサー四人と歌手四人が同じ舞台に乗ってカジュアルに列を組みステップを踏んだり、ソロ・パートがあったりする。音楽はスピリチャルからグレース・ジョーンズの歌う『バラ色の人生』まで雑多で、ブギ、ディスコ、レゲトンなどポピュラー・ダンスへの参照も見られる。52分。人類学的というかパフォーマンス研究的な関心から、あるいはアイデンティティ・ポリティクス的な意図から、知的に構成されているのだけれども、社交ダンスを舞台に乗せる方法にはあまりコンセプトが感じられない。ダンサーや歌手の気取らないラフな踊りを引き出そうとしているわりにはフォーメーションがかっちり決められているため、規則に縛られながらミスが頻発するという堅苦しい見苦しい踊りになっていて、参照先の社交ダンスが本来持っているだろう楽しさを感じることができなかった。「踊るダンス」が「踊る/見るダンス」に移行する時、すなわち踊り手と観客が分けられる(主客の分裂というより役割の配分)時に起こる変化にあまり思いが致されていないので、ダンスとしてのポピュラー・ダンスではなく「ポピュラー・ダンス」の演劇的な再現表象に見える。DTWにアフリカ系の観客がたくさん来ていて、それがきわめて珍しい光景だということに気づき、そのことはそれなりに驚きだったのだが、これならむしろアルヴィン・エイリーなどの方がよほど「ポピュラー文化」としての機能を果たしている。たとえ劇場で行われるコンサート・ダンス(スペクタクル)の形式を取っていても、エイリーの観客はノリノリで楽しんでいるのだ。ロナルド・K・ブラウンの舞台でもそうだったし、セヴィオン・グローヴァーの舞台でもそうだったが、これらのダンスは必ずしも「アフリカ系」というアイデンティティでもって観客にアピールしようとはしているわけではない。アイデンティティが舞台と客席をつなぐ紐帯になることはあるかも知れないが、それはどちらかといえばマイナーな要素であって、いいダンスがありさえすれば客席も巻き込まれるのだし、重要なアイデンティティ・ポリティクスはそういう実践(再現表象ではなく)の中で微細に作動して、絶えず人と人を結び付けたり切り離したりしながら新たな分節化を行うだろう。単にダンスを再現表象の対象に落とすことによっては、ダンスを政治的に批評することはできないのだとしたら、ダンスはダンスによって(経験は経験によって)批評される以外ないわけで、そこに無言のパフォーマンス=批評としてのダンスの可能性の全体があることになる。