おはようございます。
さっそく、
昨日の続きです。
まず
小説についてですが、
◇から視ると、頁をめくるたび、
文章のカーテンが、来る日来る日も
ゆらゆらと揺れているので、
集中して読み進めるのが困難なのです。
本を開くと、ただでさえ落ち着かないのに、
それでも、意地でも読んでみなくちゃ、
普通の人のようにしないと。
普通の人には近づけない!
と
いつも
悶々としていました。
昨年だったか・・・
大学生のイトコが、
村上春樹の、
『アヒルと鴨のコインロッカー』
を
くれました。
あとあと・・・・
不思議なもらい方をしたような気になりました。
(本屋さんで思い想いの本を選び、贈りあう)
せっかくイトコがくれた本でしたが、
本を持ち、時間が経つにつれ
傾くと、いちいち具現化する縦文章が、
内容の邪魔をしていました。
村上先生に限らず、
“過去と現在”が交互に書かれているような
印刷の仕方をされると、場面場面の風や空気が、
毎回毎回、飛び換わらなければならず、
読み進めるのに合わせて、
貼り付けあいが行われるのです。
読むことで、映像になる小説の役割の前に、
目の前で起こっている受け取る映像として、
負担なのです。
このような視界をもった人がいたら、
本当に目が疲労すると思うので、
その人の家が、子供のうちから
週に何十冊、読書をしなさい!
という
家風だったら、
ちょっと可哀想です。
◇にとって本は、いつもどんなときでも、
ただの本だったことはなく、
“本”とは、
中身にとっての家でした。
“内容を安全に住まわすための団欒の場”と
いうべきでしょうか。
外的変化(落としたり・飛んでいったり)は、
しっかり中の住人や環境に影響を与えています。
しかし
これをシカと視るのは、◇くらいでしょう。
落ちたときに何が起こるのかは、
地割れのような地震と、
住居や周辺の整頓された
中(食器棚やタンス)から、
物があふれ出ていく!
という
事態です。
本をバン!!と叩くように閉める行為でも
大変危険なことが、本の中で起こっています。
そんなに乱暴にする人は、そうそう居ないとは
思いますが、気をつけましょう。
不意に、本を落としてしまう人がいるのは
仕方のないことです。
でも、故意に本を投げつけたり、
蹴ったりなんだり・・する人に
これまで出逢ったことがなかった◇は、
“内容にとっては家”であるはずの本 と
あるときは書き手か読み手、
最初は受身で途中から、責めの意識・・・。
なんだか、混乱しています。
他の人にとって本は、どういう存在なのかな?
と
今、考えます。
こういう視界を持っていなく、
◇が子供の頃あこがれた、普通の視界を持って
生活している人たち・・・。
平和な人たち・・・に、とって、
“本”の存在って、なんですか?
よく、時代や場所・読み手の環境を問わず、
異世界(内容の中)へ連れて行ってくれる
タイムマシーンだと表現する人もいますが、
それは、文章の本に限らず、図版や漫画、
絵本や点字の本の中も、
同じこととして言うのでしょうか?
物語を理解する前の段階
(1度読みの)では、受身で、
読み終わった後からは、責めの意識(物語に乗り込ん)で
行く、感覚でしょうか?
それをしていても、
本を読む、みなさんの外的環境では、
なんら変化はないのでしょうか???
心理的な外的環境の変化は誰にでもあるでしょうが、
そうではなくて、本を手に取っている読者の方は、
読んでいるとき、どこにいらっしゃるのでしょうか??
なんだか、猛烈に疑問です!
とっても聞きたくて、しょうがないです。
1日考えて、明日聞かせてください。
行ってらっしゃい!
◇