こんにちは。



 ◇は、かなり多くの方々から、本を薦められます。

   といっても、だいたいは身内です。

         ただ、その量が千切りにしたキャベツの量みたいに多く・・・。


小説や映画も、テレビ番組に音楽ラジオ、たまに図版も・・・。

でも、なんだか手にとってみる・・・・まで、いきません。

 いつも、自分がそこまで、

     乗り込んでいく!という気になれないのです。

 

  ◇は、幼稚園児の頃、

 東京の祖父母の家によく遊びに行っていました。


    そこで、ショッチュウ仕事をしに、

       海外へ行っていた祖父の書斎が、

              2階の居間の隣にありました。


 幼い頃から、人とテンポが異なっていた◇は、

  休みの日になると黒澤 明監督の

    黒白映画のビデオを数十回観てから

    麗しのサブリナを観て鼻歌を歌いながら、

    落書きするのが好きでした。

   

 祖父母の家は、1階と2階はどの部屋へ入っても本棚ばかりで、

  特に洋書は、図版から大きな大きな本が、多く。

  日本にいながら、日本の文字の背表紙を見つけるのが

  大変な家に暮らしていました。

  今でも、当時のままです。


そんなに沢山の本に囲まれている・いたにもかかわらず、

 ◇は、子供の頃から限られた本しか読みませんでした。

 それは読んでみても、全く理解できなかったからです。

 


子供の頃の◇は聴いた音がほぼ80%映像で視えました。

今となっては普通に受け取る映像の多くは、

 自分の中で、へんてこ なもの、

 視てはいけないものに分類され、

  ◇だって日々の出来事として、楽しく話したくても、

    自分はおかしなことを言う(現実で事実だけど・・・)と、

        かなり制限するようになりました。
 

他に、特に何もしていなくても始終、

    ひどい頭痛と緊張気味で生きていました。

  こうして記事にしていく最中、

        いたるところで話題は永遠にズレます。


     これが、10代の頃の◇は、

   どこで舵きりをしていいのか分からず、でも

 人とのコミュニケーションは自由に取りたく、とても悩みました。

  

人から薦められた本は、確かにいいでしょう。

 

  でも、子供達が話している会話にすら

           入っていけなかった◇が、

 

他の人達から薦められた本や映画を手に取ったところで、

 一々しまって、
 

    やはりストレートには理解できない。

           (プラス)

   膨大な量の映像の嵐、

 受け取り続けるだけの、扉のない状態のドア。



  ◇は、共感したいんです。

      理解したいんです。


          すこしでも。


        理解してみたいんです!

   晴れてフラッとになれたら、中に入ってみたい。


        飛び込んでみたいんです。



       
◇が話題の小説や本、小論文などを手に取ると

何故、この文章で話が展開していくのに、結末がこうなるの?

突然、文章が切れるのは、何のために必要なの?

 あ、白紙の頁になっちゃった。

 

     なぜ、果物が幾つあるのか数えるのに、

         りんご+みかん で答えは2つになる。って、どういうこと?


 他、出てくるとキリを付けに誰かがやってきてほしくなります。




   実は、愛読書というほど、

      小さな持ち運べる本を知りません。


幼い頃に読んでいた

  立原道造の詩集や、北原白秋の詩集なら

    今でも暗記していますが、近くに置くほど心地よいか?

             と聞かれると、

        いいえ。

          と答えるでしょう。


◇は、字が読めるようになったときから

           一筋に愛してきた本があります。

それは、

   『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』です。


この2冊だけが、

  唯一おもしろくて、とてつもなく理解できハマリました。

   ルイス・キャロルの文章は、◇にとって心のより所でした。

                      それと西洋哲学史も好きでした。


見知らぬ土地の図書館や、学校へ入学して最初に探すこと、

 確認することといったら、『不思議の国のアリス』

 『鏡の国のアリス』の、日本語版(子供用と大人用)、英語版、

 あらゆる言語に訳されたもの、をまず、見つけました。


学部に入学する前、極めて幸福な環境を経て、

  数学の世界にカムバックした◇は、

   1年中数学関連のマニアックな本ばかり読み漁りました。

 2年のときか、ちょっとすぎたか

ダニエル・タメット『僕には数字が風景に見える』

祖母から母、母から進められ、表紙と数を山(丘?)のように

みたてた絵に関心を持ち、読んでみました。

 
 素直な感想は、

   この人、よく20代でカミングアウト(出版)できたなあ。

        いいなあ。海外はオープンで。

         自由になったんだなあ・・・。

            そう思いました。


◇はテンカンでも、

  アスペルがー症候群でもサヴァン症候群でもありません。


けれど、

 彼が話している幼少期は、◇に当てはまりすぎています。

    まったく別の脳の持ち主ですが、

        小学校のときに、もしも!ダニエル・タメットが

      同じクラスメイトで隣の席に座っていたら、

   ものすごく、

          楽しかっただろうなあ。

               と、

             あの頃は、読んでは想像しました。

 

当時の◇は、まだ家族にカミングアウトしていませんでした。

 世界一信用している母にも、言っていませんでした。

   母は◇を深く愛し、常に理解者であり、支えてきてくれましたが。

さすがに、そこまでか・・・と、嫌われたら・・と、もしもを想像します。

 100人いれば100の考え方があるように、100の感情が生まれてきて

  やはりどこかに常識を考えなければ

          こっちの世界では生きていけない。

       生きていってはいけない

             と

     強く思い出した時期でもあったので、

 

  幻滅されるような気がして、とても言えなかった。

それが21歳のときです。


    ◇は、

この先も どうやって生きていくべきなのでしょう・・・

  ありのまま生きていくには、

         口頭会話のサポートが必要です。

 

こうして記事を書いているときは、なんともなく

 かなり即興に近い勢いで書いていっていますが、

  自分が喋るときには

     出かけているのを視てしまっている

 音を探す段階から

    繋げる音(文字)がどうの・・・とか、 拾いに行ったか、

      探しに行ったか・・・・

          自己完結型ですが、はじまってしまいます。


ここでいう、音というのは、

     文字にしたときのブロック のようなものです。

 ◇には絶対音感は備わっていませんので、

  抜けるような美しい音で会話ができるわけではありません。

              こういう人って、困っちゃいますよね、、、

  一問一答のような細部にわたって、質問をされない限り

   言わなければ人はそこまで分からない。ことだと、

      人はいうし、

    逆に思考が全て外に出てしまう能力を

      もっていらっしゃる人間でなくて、よかったかな。

                         と

                    自分を励ますのです。

 

   よく、《何回も読み返すことが大事だ。》と、

            受験用語のように、

     本好きの方の間でも言われるようですが、

 受験やテストなど、自分自身がその時位置する

特定の価値のようなものの為には、必要なこともあります。

   しかしそれは、義務感で自分を縛り、取り組むもので、

     実際、愉しみながらしている人は、

             全体の半分ではないでしょうか。


課題や提出物が終わって、あるいは

         そこから抜け出(卒業)した後まで、

 ◇は重きを置けません。

    そこまで熱くなれません。

         じっとしていても、ちょっと質問すれば、

                (心の中で、複数のものに)

             リンクして、どんどん映像がやってきます。

今でも、変わらず

 人の会話が光っていたり、

      やたら連なっていたり

        あちこち落ちていくのも、1枚板の映画を観るより


                   とてつもなく リアルです。




限られたものしか、読まない。好きなものしか観ない。

たしかにそうです。

しかしその理由は、薦められるものを手にとっても、

              文章がなかなか理解にくるしみます。

これは批判ではありません。

何のために前置きばかり措置していくのか、わからないのです。

そんなことから、

何をしていても、誰といても、悲痛だった過去はありますが、

そこらへんは、大方どなたにでもあるでしょう。


いろいろな所に書かれてある表現で、

  時間をかければ・・といいますが、かけるだけかける、

     その方向への熱意はありません。


◇は無知です。

ただ無知というのは、なにも恥ずかしがって、

     消そうとしたり覆い隠したりするのは間違いだと考えます。


 必要なものは、足の爪先から、頭の上の上まで、

自分自身という軸レベル(全身全霊)で、意識した状態をつくり、

研究や探究をしていかなければ、モノにはならない。


そこに到達するまで、周りが提案してくださる事は、

 ◇を、あなたを、だれかを、信じ、愛しているから。

   理解しようとしているから。理解したい、向き合いたい、

     こう付き合って生きたい。支えたい。


   手を携えて、ともに苦しみ、ともに悩み、ともに悲しみ、

      ともに喜び合いたい、

         できるだけ多くの感情を共有してあげたい。

                  と思っているから、

        言葉に出るのです。

     わざわざ言葉に出してくださるのです。


        それに対して、

            有難く思い続けるだけで、

   今後も日々過ぎていっていいのか、

  よおし、やるぞおお!と、取り組んで、前のめりに、

人生と向き合っていくのか、

    自分自身の生涯という看板に価値を付けたかったら、

      自覚を持ってしっかりさせないと、なりません。

           遅れることが、

              必ずしも

わるいことではありません。


              焦ることも、時として

                我が身に光を当てて

                   追い風を呼んできてくれます。

最もあぶないのは、

  いつまでも、その無意識の制限という囲いの中から

    出ないでいる(無意識だから)。

    出れないでいようとする(無自覚による)ことです。

 


幼少の頃・若い頃に抱いていた、

  思い描いていた未来の自分は、今どこらへんにいますか?


 輝いていた未来の自分は、永久に空から出てはこれずに、

    過去の自分は、その時々の次元に置き去りのまま、

       そんな時代もあったと、

           記憶から無理矢理突き放そうとして、

        忘却という焼却炉に捨てたから、

             もう大丈夫。

                そ

                ん

                な

               ふうに自分をごまかすのは、

                   何の救いにもなりません。


      投げやりになっては、なりません。
  

どんな次元にもいるあなた、あなたの過去、いつのときも

いつのときも、いつのときも、

一緒に踏ん張ってきた当時の過去の自分(あなた)たちは

まだその次元で生きているんです。戦っているんです。


  その自分達を助けに行けない人が、

            抱きしめに行って、

     『あの時、生きてくれて《ありがとう》』

                      の

                一言もいえない人が、

他人を本当の意味で助けに行くことなんて、できっこないのです。


こういう言葉を◇は、自分自身にもいつも言い聞かせるのです。




   人間関係に疲れた方、仕事に疲弊している方、

      近くに人がいない方、

      ともだちがいない方

  また そのことを非難されている方へ、

 

同情という心無い視線を感じらている方へも、

 淡々とした表情から送られ続ける痛い

   めくばせの渦中から、飛び出して逃げて逃げて

    逃げ切ってしまいたい方へも、


現実から一旦離れてえしまいたい、そういう方々へ、

          1日の始まりに、

       1週間の間に、

    1ヶ月、2ヶ月、8ヵ月の内に、

  1年後、3年後、10年後、ここで逢いましょう。

◇のブログは、ほぼ永久的に、

         内容には事欠かないので、

            ◇に何かない限り、更新され続けます。

          といっても、
芸能関連者の毎日毎秒感想ブログとは違い、

◇はできるときに、やっていくつもりです。

 視えて視えて(受け取って)一旦手放したくなったときや

 すばらしい何かと出逢ったとき、

                 などに反応します。



   11月になったら、コメントを受け付けます。

   それまでは今までどおり、◇から発信していきます。

             それと、

 読者人数が0人のままなのは、あまり興味がないからです。

 0(zero)という数は好きなので、

 人数が減ったり増えたりするのなら、

            0人のままのほうが、いいや。

 と、

 軽めに思っています





P,S

もし、あなただったら、過去の自分たちに逢いに行って、

        なんて言いますか?

       何を伝えますか?


    事実を教えてあげることです。

 『今、いくつになったよ。生きているよ。毎日楽しいよ。』

 『あれから(卒業後)、夢は叶い続けた。

             がんばってくれて、ありがとう。』

 『幸せになったよ。

  それでも、あの時願い続けた空から降りてくる、

  光来の中からやってくる30才前後の自分へは

  まだまだ辿り着けないや。

  勉強して、必ずあの世界へ、あそこまで行くんだ。

  だから、◇の夢は、まだ終わらないから。

  もう大丈夫だよ。』
 


 

 『目標に近づいたら次はあなた達、全員を連れて、

  そのとき◇が到達している日常へ招待する。

  約束する。

  そこで私達の永遠の夢を叶えるために

  生きていきましょう。いよいよ人の光になるために。』


 

みなさんの日常が、すこしでも

心にあたたかいものを感じられるスペース。

他人のやさしさに感激し、感謝したくなる自然なきもち。

人のことばかりではなく、まず、自分を大切にするということ


◇じゃなくても、

 好きな人・大切な方のことを想うだけで、生まれる

 常に新しい感情を、大事にしていただきたい。


こう思うのは、やはり同じ人間に生まれてきた性です。

幸せの灯を、まずはご自分レベルから、

点していってみましょう。


それを見た人が(あなたの状態に心動かされた人が)、

                      近くにやってきて、

  次第に前向きさや希望といった数本の灯台を、

      自分の心にも立てていくでしょう。


大げさな話ではなく、当然に起こりえることです。

都会も田舎も、大陸も島国も、関係ありません。

町や村は、そうやって良くなっていくのです。


私達は人間なのですから、

        工夫すれば良くなるの、くりかえしです。