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0からの哲学

「世界は多くの事を誤魔化し過ぎている。」感情、理性、倫理、価値、常識、勤労・・・。きっと何かがあるはずだ。溢れた想いを此処に綴る。

初回である、この記事の中でお伝えしたい事がただ一つあります。

それは、とても抽象的なものですが、私のブログの根本であり全てと言えるものです。

それは、「この世のイメージ」(図1)です。

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図1. この世のイメージ(感覚)

黒い部分の中にある白い光は「感覚(命)」です。

この図は「生きている」とは「無の中に、感覚が1つある」という事を表しています。

このイメージが、このブログの全ての基準です。

以下、図の繊細について説明していきます。



テーマ

「感覚」




さて、「感覚がある(生きている)」はどのような意味でしょうか?

ドーパミンが反応してニューロンが電気信号をどうこう言われたって納得する事はできません。

そもそも、「納得した」という事も感覚です。

では、どういう意味でしょう?

実を言うと、この「感覚がある(生きている)」という事は、人類の誰も理解できていないのです。

なぜなら、私たちが当たり前だと思っているものは全て感覚だからです。

例えば

科学の法則は、確かに世の中で当たり前と言われる事に基づいて定義されていますが、その当たり前は感覚なのです。「物質が・・・の時~」といっても、物質とは何か解っていませんから。

言葉だって感覚です。私たちは「リンゴ」という発音で、りんごを思い浮かべますが、外国の人はいったい何を想像するのでしょう。

生活のなかではどんなに理論的な人だって、本当に根本にあるものは感覚であり、それは感情でもあり、とても抽象的なのです。

理論、言葉とは感覚をより深いものにするために使うものなのです。

結論は、「感覚がある(生きている)」事に意味はないという事になります。

ただ、感覚があり、それに従って生きるだけです。





しかしながら、私はこのような感情のない事を、ブログで伝えたい訳ではありません。

感覚に従うからこそ、どうしたらそれが満たされるのかと思わずには居られないのです。

それこそ、まさに科学の探究心や言葉の選択、人の生きる力になるものではありませんか。

この事は、次回の記事「1」で熱く述べたいと思います。





さて、ここで「無(死)」について少し触れます。

これも私たちは完全に理解する事ができません。

感覚がないというのは、「寝ているとき」や、あるいは「生まれる前」というのがイメージ的に近いような気もしますが、そこもやはり感覚でしか納得のしようがない事です。

「無(死)」を述べる事はとても辛い事です。

私がこの記事を書くのは、「無(死)」を避け、「感覚(命)」を広げるためだと言えます。

この事についても、後の記事「未定」でお話しします。





まとめると、世の中は酷く曖昧で、感覚的で、抽象的という事になります。

そして、具体性とはあればある程、多くの人に理解されなくなります。

例えば、

「りんごは赤くて歯ごたえがあり甘い」

などです。青りんごもありますし、甘いや歯ごたえは人の感覚により違います。

言葉(単語)に感覚の違いがあり、このようなズレが生じます。

私が、記事を書いているこの瞬間にもズレが生じているのです。

理解するとは、同じ感覚がある時だけです。

つまり、いま記事を読まれている方も、私の感覚と同じ感覚であるほどに理解して下さるのです。




さて、最後に誤解して欲しくないのですが、私は理系の人間です。

今まで多くの科学者が、どれだけ苦労をして科学を築いているのかを学んできました。

それが、今の人類にどれ程の恩恵を与えているのかも、実感しています。

ただ私は、



科学、正論、常識、宗教、など、

人の為す事は、

『想い』が込められている程に、

意味がある、



それを知って、

欲しかったのです。





今回はここで終わりです。

次回、記事「1」では人間の感覚の根本にあるものについてお話しします。

ありがとうございました。