筆始歌仙ひそめくけしきかな
汽車見えてやがて失せたる田打かな
永き日のにはとり柵を越えにけり
御灯のうへした暗し涅槃像
村の灯のまうへ山ある蛙かな
人入って門のこりたる暮春かな
水流れきて流れゆく田打かな
白藤や揺りやみしかばうすみどり
麦車馬におくれて動き出づ
向日葵の蕋を見るとき海消えし
虚国の尻無川や夏霞
風鈴の空は荒星ばかりかな
大雨に鏡も濡れし田植かな
岩水の朱きが湧けり余花の宮
山の蚊の縞あきらかや漱
柿もぐや殊にもろ手の山落暉
浸りゐて水馴れぬ葛やけさの秋
秋の夜のつヾるほころび且つほぐれ
あなたなる夜雨の葛のあなたかな
みじろぎにきしむ木椅子や秋日和
水のめば葱のにほひや小料亭
北風や青空ながら暮れはてゝ
寒烏己が影の上におりたちぬ
団欒にも倦みけん木兎をまねびけり
一片のパセリ掃かるる暖炉かな




 永き日のにはとり柵を越えにけり

を、写真のような一瞬を切り取った名句だと思っていた。
しかし、不器男の本質はその一句一句によって立ち上がる動的な風景にあるようだ。

 白藤や揺りやみしかばうすみどり
 麦車馬におくれて動き出づ


「白藤」と言った瞬間の読者の白藤は当然写真の中にあるように静止している。読者は続く「揺り」に驚かなければならない。そして白藤は2文字の瞬を置いて「揺りや」む。
この静止→振動→静止のは写生というより映写だ。そしてその映像のタイトルとなるべきテーゼが「うすみどり」。見事としか言いようが無い。
麦車の句も同様。読者は不器男の「動き」の描写の巧みさに舌を巻くしかない。

動きを詠む事は同時に静止を詠むことでもある。

 虚国の尻無川や夏霞
 風鈴の空は荒星ばかりかな


名詞で構成された掲句。荒蕪の地の、それも視界の閉ざされた霞の中を音も無く流れる川。そこに動的な言葉は一切使われていないが、尻無川という名前は川の持つ豊穣さではなくどろどろとした生々しさを想起させる。この川は、確かに動いている。
荒星ばかりの空に吊るされた風鈴は当然木枯らしに鳴り響いていることであろう。木枯らしの中の風鈴の動きは人の目を強く引きつけることであろう。しかし不器男はその動きを直接表現せずに、空の描写に徹する。それがもっとも風鈴の音を読者に印象付けると知りつつ。

永き日のにはとり柵を越えにけり

永き日。作者はずっと柵を見続けていたことだろう。その監視カメラのような眼が万を辞して捕らえたのが一匹の鶏の姿だった。小さな動物が柵を越えるのは人間がひょいと柵を跨ぐようにはいかない。試行錯誤の後のその情景を、柵を越えたという事実のみを記す。注意深い読者にはその羽ばたきの音がよく聞こえたに違いない。

動きを写生することは、動きを丁寧に追うことではなく、その動きを的確かつ簡潔に抽出した言葉を拾い上げることであるようだ。それは想像力という読者の力を借りて眼の見たものと同じ映像をスクリーンに映し出す。