神戸市立博物館で開催されている「デ・キリコ展」に行ってきました。




神戸市立博物館は、JR、阪急、阪神各電車の三ノ宮駅から

歩いて10分ほどのところにあります。

 



この博物館は、1982年に開館しました。
建物は、旧横浜正金銀行(現三菱UFJ銀行)の神戸支店ビルを転用したものだそうで、
昭和初期の名建築として登録文化財になっています。

 





1階は広い吹き抜けになっています。

 



その一角に、今回のデ・キリコの写真とポスターが掲示されていました。

 



今回は約100点の展示作品中、9点の作品が撮影OKでした。
以下では、それらを制作年代順に紹介していきます。

デ・キリコは、1888年にギリシアで生まれました。
両親はイタリア人でしたが、父が鉄道技師で、

鉄道建設のためにギリシアに移り住んでいました。


子供のころから絵を描くのが好きだったようで、

12歳の時にアテネの理工科学校へ入りますが、

別の学校で2年間デッサンと絵を学んだりしています。


ところが、17歳の時に父親が亡くなり、

家族はミラノを経てフィレンツェへ移住しました。


19歳の時に、母は彼にミュンヘンで絵画を学ばせることを決意し、

ミュンヘンへ移住します。
そして彼は、ミュンヘンの美術アカデミーへ入学します。


彼はここで2年間学びますが、

このときにニーチェやショーペンハウエルなどの哲学に強い影響を受けます。
そして、22歳の時に最初の「形而上絵画」を描きます。

次の絵は、彼が25歳の時に描いた作品です。

 


「沈黙の像(アリアドネ)」(1913)


解説によると、この頃アリアドネの像のあるイタリア広場をいくつも描いています。
敬愛する哲学者ニーチェの詩から着想を得たもののようです。

ここで、アリアドネというのは、クレタ島のミノス王の娘です。
迷宮に潜む怪物ミノタウロスを退治するためにやってきた英雄テセウスに、

糸玉を与えて迷宮からの脱出を手助けします。
その後、テセウスと共にクレタ島を去ってナクソス島に行きますが、

ここでアリアドネはひどいつわりになります。
テセウスは、そんなアリアドネを、

彼女が眠っている間に立ち去って島に置き去りにしてしまいます。

この年、サロン・ドートンヌに出品した「赤い塔」が初めて売れて画商が付きます。
また、詩人で美術評論家のアポリネールが、

「若い世代の中で最も驚くべき画家」と激賞し、次第に評価されるようになります。

次の絵は、26~27歳の頃の作品です。

 


「預言者」(1914-15)


絵の解説によると、マヌカン(マネキン)を描いた最初期の傑作だそうです。


彼がマヌカンを描き始めるのは、第1次大戦勃発後です。
彼にとってマヌカンは、生命と感情を失った人間を表しているようです。


また、顔に十字線のようなものが描かれているのは、

最後に挙げた参考資料の「101人の画家」によると、
子供の頃に父から、顔に十字線を引いて目鼻の位置を決めるとよいと教わったことと関係があるようです。

第1次大戦が始まると、彼も従軍することになります。
しかし、兵士として不適格とされて軍の病院で勤務することになります。

ここで、入院してきた画家のカルロ・カッラと知り合い、
自分たちの絵を「形而上的」と形容して意気投合します。
ここに、「形而上派」が誕生しました。


ただし、彼らの言う「形而上的」というのは、

特別な哲学体系を意味するのではなく、
「存在しないもの」という程度の意味で、

不安や恐怖、夢など神秘的なものを指しているようです。
これはのちに、シュールレアリスムに受け継がれて

さらに拡張されて行くことになります。

次の絵は、彼が30歳の時に描いた絵です。

 


「形而上的なミューズたち」(1918)


解説によると、この絵は彼が病院にいた頃に描いた最後の代表作で、
二体のマヌカンが置かれた狭い室内は、この時期の特徴だそうです。

この年、病院を退院した友人のカッラは、「形而上絵画」という本を出版します。
ところがこの本は、キリコに相談もなく、また彼のことにも触れていませんでした。
そのためキリコは憤慨し、結局二人は決別することになってしまいます。

また翌年、ローマで個展を開いても作品は売れず、酷評もされました。
そんなとき、ローマのボルゲーゼ美術館でティツィアーノの絵を見ていて、

突然啓示を受けます。
これがきっかけとなり、彼はモダンアートを否定し、

さらには自分のこれまでの作品も否定して、ルネサンスへの回帰を計ろうとします。


「風景の中で水浴する女たちと赤い布」(1945)


解説によると、手前の果物や木の描き方は、

バロック絵画やドラクロワ、クールベらのフランス絵画を参考にしているようです。


「17世紀の衣装をまとった公園での自画像」(1959)


解説によると、同時代の前衛芸術家たちが排除してきた

ルネサンス風の肖像画を敢えて描くことで、

彼らや批評家たちに挑戦状を突き付けているのだそうです。

しかし、こうした古典的なスタイルに移行した彼の絵は評価されませんでした。
結局、収入のため、再び形而上絵画的な作品の制作に戻ることになりました。

 


「オデュッセウスの帰還」(1968)


解説によると、オデユッセウスという英雄の旅路を、

キリコ自身の長く険しい人生と重ねているそうです。
右の窓の外は、彼の生まれ故郷であるギリシアの風景で、

左の壁には赤い塔のある彼の「形而上絵画」が架かっています。


「球体とビスケットのある形而上的室内」(1971)


「瞑想する人」(1971)

彼は、87歳でフランス美術アカデミーの会員に選ばれます。
次の絵は、彼が88歳の時の作品です。

 


「孤独のハーモニー」(1976)

彼は、心臓発作により90歳で亡くなりました。

キリコの絵は、中学生の時に美術の教科書で初めて見ました。
それが次の絵でした。



「通りの神秘と憂愁」(1914)


何とも神秘的な雰囲気で、とても印象に残る絵でした。
残念ながら、今回の展覧会ではこの絵はありませんでしたが、
この絵を描いた20代の頃の絵は、同じように神秘的でとても楽しめました。

展示室の出口を出ると、特設のミュージアムショップがありました。

 



また、1階にはミュージアム・カフェがあります。

 



この中に、常設のミュージアムショップがありますが、
品数はあまり多くありません。

 



中央の猫のグッズは、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」が

2012年にこの博物館で展示された名残りでしょう。

 



ところで、このカフェの奥には特別室があります。

 


ここは、明治時代の異人館「旧トムセン邸」の家具などを使って、

当時の雰囲気を再現しているそうです。
ただし残念ながら、ここでの飲食はできないそうです。

 



三ノ宮駅に戻る途中、センター街を歩いていると、
突然キリコのマヌカンが現れたので、
思わず写真を撮ってしまいました!(笑)

 



参考資料:
早坂優子「101人の画家」(視覚デザイン研究所)
世界の名画21「キリコとデュシャン」(中央公論社)
アートギャラリー 現代世界の美術17「デ・キリコ」(集英社)