再び、下田港に戻ってきました。

 



港には、川端康成が伊豆の踊子と別れた汽船の乗り場跡の案内板がありました。

 



そこには、当時の乗船場の写真もありました。

 




ここで、下田の歴史について調べてみました。

下田港は、江戸時代から、大阪から江戸に向かう船舶が

風待ちや避難に重要な港でした。


二代将軍徳川秀忠は1616年に、下田港の警備のために

下田奉行所を設置して船を監視させました。


やがて、東北~江戸往来の船も必ず下田で検閲を受けたため、

年間3,000隻もの船が出入りし、下田は大いに栄えました。

その頃の下田の様子を描いた図が、港に掲示されていました。

 




しかし1721年、船を監視する御番所が浦賀に移され、下田奉行所が廃止されました。
その後、1842年に下田奉行所が復活したものの、1844年に再び廃止となりました。
ところが、ペリーの黒船来航により、3度目の奉行所が設置されることになりました。

この港の南端には、「ペリー艦隊来航記念碑」が建っていました。

 



1854年3月に、幕府とペリーの間で日米和親条約が締結されると

下田が開港されました。


早速、ペリー艦隊はこの下田に入港し、上陸したのがこの場所でした。
その上陸記念の地として、ここに記念碑が建てられたのです。

 


なお、記念碑の前の錨は、アメリカ海軍からの寄贈だそうです。

ペリーの一行は、ここから応接所となった了仙寺へ向かいます。
この時に行進した約400mの通りをペリーロードと呼んでいます。



ペリーロードは、平滑川という小さな川に沿っての道です。

 



途中、なまこ壁の家がありました。

 


なまこ壁というのは、土蔵などに用いられる壁塗りの様式の一つだそうです。
防火や防湿の目的で、土壁に平瓦をはめ込んで継ぎ目を漆喰で固めたものです。
盛り上がった漆喰の形がナマコに似ていることからこう呼ばれるそうです。

次の写真は了仙寺です。

 



この了仙寺で、ペリー一行の接待とともに、横浜村で締結された

日米和親条約の細則を定める追加の条約(下田条約)の交渉と調印が行われました。

次の写真は、了仙寺の本堂です。

 


本堂は当時のままで、国指定史跡になっています。

本堂の上部に、当時の絵の複製が架けられていました。

 


この絵は、ペリー艦隊の従軍画家ハイネが描いたもので、

原画はアメリカ海軍兵学校に所蔵されているそうです。


この絵は、条約の調印の前に行われた黒船陸戦隊の調練の様子を描いた図です。

 




この下田条約では、日米の為替レートの他、

米人の遊歩区域や休息所なども細かく決められました。


このときの交渉に当たった日本側の代表は、

日米和親条約の締結で特命全権大使となった林大学頭(だいがくのかみ)でした。

大学頭というのは、江戸幕府に仕えた儒官の長の役職で、

代々林家がその役を担っていました。


その11代当主となったのが林復斎(ふくさい)で、

当主となった後は「大学頭」と改名しています。


ところで、彼は最強の外交官だったそうです。
石炭や食料の提供などの譲歩できるところは譲歩しつつも、

交易に関しては最後まで日本側の要求を通し、

交渉ではペリーも言い負けていたそうです。



今回、この林大学頭を主人公にした映画「武士道ブレード」(1981)

の存在を知りました。
林大学頭を演じたのは、何と三船敏郎です。
残念ながらこの映画は、日本では公開されなかったそうです。
いつかどこかで放映してほしいものです。

ついでながら、林大学頭を全権大使に任命したのが、老中・阿部正弘でした。
勝海舟を登用するなど、阿部正弘の人を見る目は本当に優れています。
彼については、すでにブログ「福山城」のところで紹介しました。
「福山城」 | Vagabond美術館 (ameblo.jp)



ところで、下田条約が調印される前日に、

艦隊の音楽隊による演奏会が行われたそうです。


この西洋音楽のコンサートには、下田の一般の町民も聞くことが許されたので、

多くの人が集まったそうです。


さて、どのような曲が演奏されたのか、気になったので調べてみました。
以下のサイトによると、フォスターの「草競馬」などが演奏されています。

黒船の軍楽隊 その7|永山音楽室報道部 (note.com)

このプログラムにあるフォスターの曲は、すべてYouTubeで聴くことができます。
ここでは、有名な「草競馬」だけ紹介しておきます:
https://www.youtube.com/watch?v=49_QHBR4OxE



日本との条約の締結を終えたペリーは、調印の一週間後に下田を去り、

琉球王国へ向かいました。

この5か月後、下田で今度はロシアとの交渉が始まります。
ところが、交渉の翌日に大地震が起こり、

大津波で下田は壊滅状態になったそうです。
ロシアの船も大破したそうです。

 



最後に、下田市の観光案内パンフレットから、

坂本龍馬と下田の関わりについて紹介します。

1863年1月に、勝海舟の一行が乗船する順道丸が、

悪天候のため下田港に入港しました。


この一行の中には、前年に海舟に弟子入りしていた坂本龍馬もいました。
実はこのとき、土佐藩の第15代藩主である山内容堂の一行も、

風待ちのため下田の宝福寺に逗留していたのです。



しばらくして、海舟は容堂のいる宝福寺に招かれます。
その折、海舟は土佐を脱藩した龍馬の赦免を願い出ます。
そのとき容堂が差し出した杯を、海舟は酒が飲めないのに飲み干したそうです。
その杯が今も宝福寺に残っていて展示されているそうです。

こうして許された龍馬は、このあと向かった神戸で海舟の海軍塾の塾頭になります。

ところで、海舟一行が下田で逗留することになった船宿には、

実は板垣退助という人物が風邪で寝込んでいました。
しかし、彼らのために、板垣はこの宿を追い出されてしまいます。
そういう記録が残っているそうです。

翌年に、海舟は船の故障で再び下田で立ち往生します。
このときも、龍馬が駆けつけたそうです。
そしてこの折、蝦夷地開拓の夢を海舟に熱く語ったそうです。
龍馬が亡くなる3年前の事でした。

次の写真は、港の南側から下田湾を写したものです。

 


右の島は、犬走島です。
そして左側奥に、弁天島が小さく写っています。

ペリーが下田に上陸して3日後、この弁天島から舟で黒船に乗船しようとしたのが

吉田松陰でした。

ところで、ペリーロードの辺りの風景は、

ガイドブックにも紹介されていて期待していました。

 


しかし実際に来てみると、本当に狭い一画でした。
また、日本の何処にでもあるような町並みで、少々拍子抜けでした。
観光客がほとんどいなかったせいかも知れません。(笑)

このあと石廊崎へ向かうのですが、

少々暑かったのでジェラートを食べることにしました。

 

 


しかし実はこれが、あとで思い掛けない事態を・・・・???
そのことはまた後日お話しすることにします。