今日が明日へ、明日が未来へ。 -2ページ目

今日が明日へ、明日が未来へ。

今を感じて生きれば今日につながり、今日の結果が明日を生む、未来はその積み重ねでしか創れない。
未来は過去を積み上げた成果であり、その日を大切に生きた者しか幸福な未来を創れない。
だからこそ、過去や未来を考えず、今その瞬間を生きなければならない。

現在、英語を学び直していて、改めて感じること。

 

 

学校の授業だけで英語を学んでも、

「聞けるようにも話せるようにもならない」

ということ。

 

 

学校の授業で行う英語教育は、受験に合格する目的だけで、

コミュニケーション能力を高める目的ではないからである。

 

 

「いや、話せるようになるよ!」

 

そういう人は、塾やネットやら何やらと、

自分で関心を持って英語に触れているからで、

純粋に、学校の英語の授業だけを受けて

それ以外何もしなければ無理だろう。

 

 

 

口先だけで「国際化」などと絵空事を吹聴せず、

学校における英語教育の根本を見直さなければ、

多くの日本人が英語を理解して話せる日など来ない。

 

 

あと、カタカナを使った和製英語や

英語をカタカナ表記にした言葉や発音、

これらも、かなりの悪影響を及ぼしている。

 

例えば、「ステンドグラス」や「ステッカー」は、

それぞれ、stained glassとstickerであり、

色付けがされたガラス、くっつくものという意味で、

しっかり、単語に意味があるにも関わらず、

素材や商品名と理解してカタカナで覚えている。

 

 

 

 

 

一体、何のために英語を学ぶのか?

留学、海外で働くため、海外旅行など

その目的は人それぞれ違うだろうが、

 

英語はミュニケーションツールなので、

試験の合格やスコア獲得が最終目的ではなく、

聞けて話せる能力を身につける必要がある。

 

 

一部、企業の昇進・昇給や就職の条件として

資格試験に合格したりスコアを取るためであっても、

それは「手段」でしかなく「目的」ではない。

 

 

 

英語が自分自身にとって、何のために存在するのか?

その目的を意識することは、非常に大切である。

 

 

 

 

 

 


 

一般的に、

学校のテストでは、英文を正確な日本語に和訳させている。

間違いのない適切な日本語訳をさせることが必要なことか?

 

はなはだ疑問に感じる。

 

通常の会話では、相手の話す言葉を聞いて、

話の状況を文字ではなく絵で思い浮かべる。

これは、英語でも日本語でも同じこと。

 

 

英語に対する日本語訳は、日本人が理解しやすいように、

便宜上、その状況に近い意味の日本語を充てているに過ぎない。

 

文化や歴史などまったく違う環境で過ごしている外国人と

日本人との理解がまったく同じはずはないため、

英語と日本語が同じになることはない。

 

 

 

 

英語の音声を頭の中で映像として流し、理解すること、

これが「英語を英語のまま」理解するということなので、

英文を完璧な日本語の文字列に訳す行為に意味などない。

 

それは、会話中に頭の中に文字列など浮かべないからであり、

その話されている状況を理解することこそ大切なことである。

 

 

また、

「英単語は単語単体ではなく文章で覚える」と言われるのも、

単語単体であれば、使われている状況が見えないからであり、

日本の英語教育のように「英単語=正確な日本語訳」では

英単語と日本語訳の、文字列を記憶するだけの作業になり、

状況に応じて英単語を選ぶ柔軟性を失う。

 

 

 

学校で英語を習い始める初期段階にこのことに気付いていれば、

よりスムーズに英語に馴染めたかもしれない。

 

 

 

 

 

 

普段、単語帳を眺めていて違和感を感じるのは、

単語や例文に書かれている日本語訳についてである。

 

英語の文章に、間違いのない適切な日本語を充てて訳すのは、

意味を固定化してしまい、理解の幅を狭める原因になるため

非常に柔軟性に欠け、問題が多い。

 

 

 

 

例えば「Apple」=「🍎」=「りんご」のように

万国共通で同じ認識が得られる単語であれば問題ないが、

動詞や形容詞、副詞など意味に幅がある品詞の場合、

対応訳の意味がまったく同じなのか、疑問が残る。

 

 

socialは【社会の、社交の、交流の】など複数の意味を持つが、

socialという英単語の意味はsocialそのものでしかなく、

日本語の「社会の」や「社交の」「交流の」などではない。

 

目の前に「social」という状況があるから使われているのであり、

それが「社会の」か「社交の」か「交流の」か考える必要はない。

 

 

 

まず、最初に、使う状況があり、最適な単語が選ばれる。

 

なぜsocialなのか?どんな時にsocialが使われるのか?

それがわかれば、それこそがsocialの意味であり、

決して「どの日本語が適切なのか?」を選ぶ必要はない。

 

 

 

 

 

上の画像は、googleにおける「social」の画像検索結果である。

 

socialという状態は、人が集い肌を合わせて言葉をかわすような

決してひとりではなく、人と人とが交わるようなイメージであり、

そのイメージこそが「social」という状態そのものであるため、

social=社会の、などと文字列として日本語化する必要はない。

 

socialと聞いて、この状況を感じられれば、それだけでいい。

 

 

 

また、

regretに関しては【後悔する、残念に思う】と違う意味に見えるが、

「残念に思う気持ち」は「後悔している」状態と同義であるため、

別々の意味として捉える事はムダな労力でしかなく、

regretと聞けば、残念に思い後悔して肩を落としているような

そんな、やや暗い気持ちの状態を思い描ければよく、

日本語の文字列になど訳す必要はない。

 

 

日本語で「後悔する」と調べれば、多くの類義語が出てくるが、

regretに対してすべての日本語訳を覚える必要があるだろうか?

 

単純に非効率でしかなく、同義の日本語など覚える必要はない。

 

 

英単語は、中心となる意味を把握できれば十分で、

そこから派生するものは想像力に任せて幅広く捉えればいい。

 

そして、中心の意味とはまったく違う意味だけは別枠と捉え、

違う意味として映像化して覚えればいいことになる。

 

 

 

 

 

上記の通り、

本来、はじめて英単語を覚える際は、文字列ではなく

「絵」として状況を感じ、覚える事が大切なのである。

 

それは、目の前に伝えるべき状況があり、

その表現手法として「言語」があるからで、

まず、言語ありきではない。

 

 

 

 

 

 

 

例えば、電話での会話で、

 

相手から、

 

この間の休みに初めて東京へ行って、新宿で買い物した後

銀座で食事をして、国立科学博物館行ったよ。

 

など、自分が一度も訪れたことない場所の話をされたら、

頭の中では一体どのような絵が描かれるのか?

 

 

たとえ、行ったことがないような知らない場所の話でも、

東京なら東京タワーや東京駅の駅舎、スカイツリーなど

東京を連想させるモノのイメージが自然と浮かんだり、

買い物場所も、勝手にどこかの売場を想像していたりする。

 

つまり、

自分がこれまで見聞きしてきた知識などと紐づけて

連想して絵を思い浮かべながら話を理解しているはずで、

決して、相手の声が頭の中で文字列では流れない。

 

 

 

 

 

 

日本の英語教育は本当に弊害が多いと感じるのは、

初学の頃から、英文を正確な日本語訳として書かせ、

少しでも日本語の表現が違うだけでバツになる。

 

英単語やフレーズを日本語と一緒に声に出して唱え、

ノートに100回も200回も書いて覚えさせられた。

 

お陰で、英単語は日本語訳の無機質な文字列と紐付き、

単語を耳にしても、絵で浮かぶことはない。

 

 

やはり、

英語の文章を聞いて即座に意味を理解するためには

単語を覚える段階から文字ではなくイメージとして覚え、

日本語訳が正しいかどうかを問題にすべきではない。

 

ここが、受験のためかコミュニケーションのためか、

その違いなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

際たるものは、英語の幼児教育にあるのだと思う。

 

スタッフが手にフリップを持ち、絵を見せながら発音する。

 

写真や映像などで一度は目にしたことがあると思うが、

幼児を相手にした英語教育こそ最も効果があると感じている。

 

幼児期の英語教育では、目で見てイメージを掴み、

音と一緒に覚える。

 

🍎=apple

🐘=elephant

🚗=car

 

 

そうすることで、

街を家族で歩いていても、映像として記憶しているため、

🚗を見れば「car」と言えるし、動物園へ行って

🐘を見れば「elephant」だと口から出せる。

 

 

一方で、

🚦を頭の中に描かず「信号機=traffic light」と紐づけて

声に出して何度もノートに書き連ねて覚えたとしても、

交差点には「信号機」などと書かれていないため、

🚦=信号機=traffic lightと無駄な文字列が介在し、

🚦を見てもtraffic lightとすぐに連想できない。

 

 

 

昨日1日の行動を順を追って伝える必要があっても、

目を閉じながら朝から晩までの行動を辿れるのは

頭の中に「絵」で記憶されているからであって、

文字列で覚えているわけではないからだ。

 

 

 

 

 

英語を学ぶ目的は人それぞれでも、

言語の最終的な目的はコミュニケーションにあり、

試験の合格やスコア獲得のためではない。

 

英文を適切で正しい日本語訳ができなければ間違い

というようなオカシな教育ではなく、

日本語と同様に、話し言葉や書き言葉として使える

そんな教育に変えなければ、英語など理解できない。