洒落た紅茶屋 -9ページ目

洒落た紅茶屋

自由奔放にのんびりと趣味の話語り


今更だが、ゲーテの「ファウスト」読み始めた。



私的人生の中で一度は読んでおかないといけない作品の一つ。

そこそこ量があるのでちょっと敬遠してたんですが、

なにかようわからない衝動に駆られたので購入。これぞブレイジング効果ってやつですね!(※注:ブラウジング効果です)


まぁ敬遠する理由としては、戯曲って、短期間で一気に読まないとワケが分からなくなるからです(これ私だけ?)。


まだ一部も終っていない現状ですけど、これ面白いです。

戯曲はシェークスピア作品ぐらいしか読んだことないですけど、

シェークスピアはセリフの応答がキレとリズムがあって面白いが(じゃじゃ馬馴らしが特にいい)

ファウストは一つ一つの言葉(セリフ)に重みがある気がする。てか現代語訳されているからその真価はわからんが、言葉が美しいと思った。


意外と話のテンポもいいしね





ええ、とりあず睡眠時間削って読んでいきますよ

今週(?)は色々後回しにしていたことを一気に片付けないといけないし

もっとうまく立ち回りたいですね




ではでは

ファウストじゃないですけど、時がとまってほしいと刹那に願う、今日この頃でした。


お久しぶりです。今週はレポートがそれはもうしつこくっまとわりついていて大変だったんですよ!


・・・・。はい、言い訳です。スイマセン




そういえば先日6月7日は私の誕生でした。

レポート期限が近場にあった今年ほど、誕生日が近づくことにプレッシャーを感じることはなかったです。



それはそうと

今年は今までの人生で一番祝ってもらっちゃいました


なんですかね?一人暮らしすると人肌が無性に恋しくなるときはありますけど、

誕生日一つ祝ってもらうことって、こんなにうれいしいものでしたっけ?

なんか感慨深いく20歳をスタートしましたよ




基本私は周りに手を焼かせているのにも関わらず、祝いの言葉を掛けてくれた方や、明らかに日頃の行いに比例しないとても素晴らしいプレゼントを贈ってくれた方、気を使ってなにやら誕生日会をひらいてくれたあんたら

などなど、なんかこっちが申し訳なく思ってしまうほどの祝い、



全ての人にここで最大級の感謝を!

私は幸せ者ですね!

これからも迷惑掛けると思いますが、助力または温かい目で見守ってやってください。





あと、しっかり言ってなかったのでついでに


「楽しかった」


だれのことを言っているのか察して下さい、


面と向かって言うのは恥ずかしいので、ここで済ませます。

オレのことを知ってるなら、大目に見てね







さてさて、

今回の贈り物で、前々から作っていた、本棚の一角にある、インテリアスペースが完成に近づきました。


その画像


洒落た紅茶屋



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洒落た紅茶屋


わかり辛いですが、この中にある、写真立て、パイプ、ビン、古書風小物入れ、ガラス製つけペン+インクは今回頂いた素敵な物です。


もちろんここに載っていない物も、大切に使わせてもらってます。






本当にありがとうです。


対人不安と自己呈示から人の本性を考えてみた。


対人不安は簡単に言えば、他者からの評価に対する不安。

自己呈示は、他者から良い風に思われるために印象操作を動機づけるもの。



つまり人との対人関係において、他者からの評価とそのための印象操作が大部分を占めている。




人は社会的報酬のために、他者から良い評価を受けたい、良い印象を与えたいと思い、行動する。

これは人として当然のこと、普通のことであるが、


自己の利益だけを考え

そのためだけに行動する。



これは「エゴ」といえるのでないか?

そうすると人は、本能的にも意識的にも自己中心的であるといえないか?


人との関わり合いに不安を強く感じる、対人不安傾向が高い人というのは、それだけ他者からの評価を気にして、より良い評価を得たいと欲しているからであり、

より良い評価を、良い印象を、自分の利益なることしか考えない。

つまり対人不安傾向が高いということはそれだけ自己中心的傾向が高いと考えられる。



また、

親切な行為、献身的な行い、こういった一見無利益な行いも

他者からの評価を良くしたいと、周りからの自分の印象を良くしたいという動機からの行動であると考えると

この一見「善」の行いの根底にあるのは「偽善」であることになる。


なんの見返りを求めない、得られないというのは事実上不可能。金や物品以外にも、どうしても相手から評価・印象を与えられてしまう。または相手からそういったフィードバックがなくても、「現実のあるいは想像上の他者の認知や評価は、自己概念と自尊心に影響する」(象徴的相互作用主義)つまりは、よく見られていると思うだけで、実際にそう他者から評価・印象を与えられたと感じる。



この考えでいけば、人のとる行動の根底にあるのは「ただ自己の利益のために」であり

それはつまり人の本性というのはどうしようもない「エゴイスト」もしくは「エゴイズム」ではないかと考えた。





まぁ以上のことは、私が勝手に思ったことですので

根拠なんてありません。根も葉もないただの妄言です。


ただ最近私は自分をそういうモノと実際に考えています。

そうすれば、今までの自分が人との関わりを避けていたこととかが説明できるからです。

でもそういう風に説明してしまうのはとても悲しくあります。


だって、今まで自分がやってきたこと、これからやることその全てが偽善であり、自分のエゴだなんて信じられないじゃないですか?


友達との付き合い、恋人、上司、ただの他人その全てとの繋がりがお互いのエゴというなら

「人」ってどんなに寂しい存在なんでしょうね

いや、その考えすらも私に対しての「評価」のためなのかもしれない・・・・





この考えはかなり根拠の欠けた極論であるが、まったく否定できるものでもないと思います。

しかしこれだけではないはずです。


人は確かに「エゴ」なのかもしれないけど、

それだけではないはずです。そんな寂しい存在じゃないはずです。




人と人の繋がりって、生まれた赤子とその母親のように、純粋で温かいものじゃないなのですか?





「人の本性、根底にあるのは」

これからの学生時代あるいは、残りの人生を使ってでも追求してみる価値のあるものじゃないですかね?

てか、私はこれから『これの答えも』見つけていくつもりです。



ただ貪欲に、知識を、真実を追い求める。

知ることが人生。 と私は考えています。




なんか無性に文学作品が読みたくなった今日この頃。


最近はめっきり論文とか専門書ばかり(物理なものも)読んでいたので、普通に活字を楽しみたい。

専門書は専門書で面白いけど、しかしそこで使われる活字は何かを説明、証明するためのツール的な役割が多く感じてしまいます。その点文学作品(文芸書)というのは文字それ自体に意味がある。いや、意味があると言うと語弊が生まれるが、ここで言う意味は・・・う~んなんて言えばいいのか分からないですけど、


専門書はパズルです。その本の本質に導くために、言葉(文字)というピースを欠けることなく組み合わせていくもの。

それに対して、

文芸書は絵画です。ストーリーという絵を描くために、言葉(文字)という絵の具を使い、色鮮やかに描いていくもの。

なので言葉それ自体が光り、個性が出る。

言葉を連ねるそれだけで読み手の感性に響かせる。文字通り芸術作品。それが文学作品(文芸書)。



まぁ簡単に言えば

専門書=事実=堅い

文芸書=感性=柔軟←楽しさ、悲しさと様々な作用を読み手に与えるからあえての柔軟。




伝わりましたかね?

私は自分で言ってて意味が分からなくなりました。←おいっ

そもそも凄い当たり前のことを遠回しに言ってた気がします。

まぁ気にしません。なんか語りたくなる時ってありますよね?わたしは今日がその時だったんです。


うん、文学作品読みて

でもただでさえ3冊の並行読みで辛いのに、これ以上冊数増やせねーよ


先週末に大同大学へ模擬出店しました。


準備や当日あたふたしてましたけど、無事に終了。

これでとりあえず、5月は乗り越えたことになります。



はい、お久ぶりです。相変わらず血色が悪いと言われてますけど、本人は元気だと信じてます。



てか、「今回も」ですけど、自分の効率の悪さが目に見えて出てましたね

同メンバーには迷惑かけた、すんまん


しかし6月は6月でまた、目に見えない期限に迫られながら過ごすことになりますけどね!

でも今は気が抜けて、頭が妖精さんなのでさっさとモチベーション上げとかないと・・・



無気力というゲットーをぶち壊して進め!・・・とかっこよく言ってみる。