私は私の戦士をいたわらない | 洒落た紅茶屋

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自由奔放にのんびりと趣味の話語り

人のことを言えたぎりではないが、

今の大学生はひどい有様である。


親にこんなべら棒に高い金を出してもらっているのに、遊んでばかり、単位が取れればいいと考え、講義も適当

なんのために大学に来ているのか疑問でしょうがない。


まぁレベルが高い大学はそんなことがないのだろうけど、私が通う大学のような場所もあることはたしか

どうしてこうなったのか?

なにが欠けているのか?


「探究心」「向上心」が足りないのが原因の一つと考える。

私のブログを読んでいる人はだいたい知ってると思うが、私の中の大学という場所は「探求心」と「向上心」を満たし伸ばす所だ。有り体に言えば、自分が勉強したいことを勉強する場。


でもそれが足りない。なぜか

その一つが学校を含む「教育」だろう

いわゆるゆとり教育。つめこみ教育がいいとは思わないし、ゆとりがいいとも思えない。

ただ明らかにこのゆとり教育で「競争」ということが失くなった。



最近は小中受験も増えてきて、受験ということが身近になってきてはいるが、私が言いたい競争とはそういうことじゃない。第一私は受験というものに疑問を持っているし、そんなものじゃ人の知識を計ることは出来ない。目安となる学力を計れても、それが教養と=になるとはいいがたい。まぁ一般教養がない私が言っても説得力がないが・・・


話を戻して

競争とは自分以外の誰かと優劣を決めるものである。また自分自身を試すことでもある。他者に負ければ悔しいし、自分の力の低さを知れば情け無いともおもうだろう。しかしそこからじゃあ勝つためには、じゃあよくなるためには、と思案し動き、そして人は成長していく。


しかし、競争がない、みんなが足を揃えて「せーの」の今の教育では

自分を比べることがなくなる。みんな一緒なら、そこから飛び抜ける必要が感じなくなる。それは仲間はずれになることを意味する。他者と自分を比べることをしなくなれば、自分の力量を底から知ることはできない。みんな一緒に歩くなら、成長することも、挑戦することもなくなる。

挑戦しようとしなければ、目標設定もできない。目標設定ができても自分の力量を知らないからすぐ諦める。競い慣れしていないから「結果」を知ること「失敗」することを極度に恐れる。


そうして人に宿る「探究心」と「向上心」という無限のエネルギーが尽きてしまう。


それが今のこの大学の状況を作り出した原因の一つと言えるだろう。


だから変える必要がるし、変わる必要がある。

教育だけではない。日本の政治も経済もだ。

こんな保守的で、現状安住していたら成長なんかしやしないし、むしろ衰退するのは眼に見えている。

世界はどんどん先へ行っているのに、日本は座って見ているだけ

そんなんでどうするんだ、なぜ気付かん


型を破れよ、なんで足を揃える必要がる。なぜ先を行くやつを狂気と見なす。

翼があっても羽ばたかなければ空も飛べんだろうが、いつまで巣にいるつもりなんだ。


だからこその「私は私の戦士をいたわらない」

これはニーチェがツァラトゥストラで言った言葉。

正しく使っている分からないし、独断と偏見だが私は

傷ついてもいい、失敗してもいい、それは必要経費だ。挑め、戦え、進め。と解釈している。

最初から自転車乗れるやつなんていなくて、傷だらけになりながらも練習した時と一緒だな


もっと貪欲にいこう。自分の可能性を信じよう。「探究心」と「向上心」が大きな力になってくれる。

狂気こそが正常であり、その先に自分たちの望むものがある。

そのことを私達は知らないのではない。

「知っていることを知らないのだけで、そのために自分がそれを知らないと思い込んでいるだけなのだ」


と私は考え、想っている。





人に偉そう言える立場ではないのは重々承知。

根拠もなく、主観で、論理性に欠ける。

でもこれは紛れもなく私の考え、現在の私を形成する信念でもある。



みなさんはどうお考えですかね?

これを気に少しでもなにか考えてもらえたらうれしいですね




―では、これにて沈黙