一人相撲の前に……

一人相撲の前に……

精神病んでますけど、なにか?

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 椎名林檎が数年ぶりにCDを出した。(まあ、東京事変等で活動はしていたわけだが)


 聞いてみて、やっぱりいいなあと思った。

 誰だかの歌にそっくりだ、とか、歌に詳しい人等からのパクリ疑惑の声が今もあるのかは知らないけれど、僕は幸い歌には疎いので、そんな疑惑元の歌手の人等のことは知らない。

 だから、ただ朴訥と椎名林檎を崇拝するばかりなのだろう。


 20代も暮れなずむ年齢を迎えて、おそらくこれからの人生で、無条件に陶酔できる歌い手は彼女以外に見つけられまいと思います。それは、たとえ彼女の歌が誰かの影響を色濃く受けている歌だったとしても。

 タイトルの変更も行って、今日から心機一転です。


 どんなことであれ、一人相撲って寂しくてむなしくて、そんなところがはたから見てると笑えるという、何の生産性も持たない行為だと思います。しかも、やってる本人は本気なんだから。

 最近はやりのエアギターみたいなおかしさがあるのかもしれない。


 でも、僕はそんな一人相撲すらとれていないということに気づいた。

 一人相撲をとっている人を影でこそこそと笑っている。それが今の僕。

 そのくせ、笑いながらこっそり、土俵に上がっても恥ずかしくないように一人で練習をしているのだ。

 自分が相撲をとるときは、絶対に相手があるものなのだと思い込んでいるどうしようもない男。


 そう、僕はまだ土俵にすら上がれていない。


 これから、土俵にあがり一人相撲をとって、その虚しさにうちのめされて、そこからまたはいあがって、ようやく幕下付け出しくらいの相撲がとれるようになるのだ、と勝手な妄想を繰り広げるとむなしくなってくる。

 そんな時間あるのかよ、と。

 30歳にもなって、そんなことを考えている人はもうおかしいですよと、誰かに肩をたたかれる、数年後にはきっとそういうことがやってくる、と、今こうして書いているだけでも、土俵の下から悪い妄想を浮かべてしまう。

 でも、本物の力士だって30歳じゃあベテランだ。

 僕はもう、普通の新人として土俵に上がることはかなわないのだ。

 だったらどうするかなんて、僕には答えが出せません。


 ともかくも、土俵に上がりたい。

 土俵に上がったその先なんて、今の僕には、見えやしない。



 病んだ精神を、治さねばならない。


 整備不良のダンプトラックのように黒々とした排気ガスをまき散らしながら走る車と、いかにも環境に負荷をかけてませんと主張するような、排気ガスを出しているのかいないのか分からないような車。

どちらが善意のある車だろう、と考える。

 言うまでもなく、前者のほうが悪のように思えるが、実はどちらも排気ガスを排出している事に違いはないのだから、実は後者のほうが、己の悪徳を隠匿している悪人なのである。

 排気ガスをまき散らすダンプトラックの方が、正々堂々悪事を隠していないだけ善なのだ。

 自分の悪意を隠すのは、これ以上ない悪徳である。


 自分の悪意をさらせ。

 悪人は、どこまで行っても、悪。

 本性を偽ったってすぐにばれるよ。

 この前花見に行ったときの事。


 高さ20cmくらいの柵で囲まれた10m×20mくらいの原っぱがあって、

明らかに立ち入ってくれるな、というような感じのところに

おじさん連中が押し寄せて、満足げに携帯を取り出していわく


「(花見の)場所は確保したからよー」


 おいおい、って。

 それは「確保」じゃなくて「占拠」というんです。


 花見というイベントで浮かれてるのは分かるけど、もうちょっと良識をもって行動できないものだろうか?


 花より団子の諺よろしく、

 こうこうと照らされた満開の夜桜の下を、

 満開の人間が花など振り向きもせず闊歩する。

 幸せという感覚から長く遠ざかっていると、

幸せに対する免疫がいつのまにか薄れていって、

気づくと幸せを受け入れられなくなっていたりする。


 友人の結婚などを素直に祝えなくなっていたら、この、免疫低下の兆候であり、

一刻も早く幸せをつかんで免疫を高めなければならないのである。


 僕に今幸せが訪れたとしたら、

僕はそれから逃げ出してしまうんだろうね。

 なんだか意思表明ばかりになってしまっているので連続投下。

 

 ちょうど二十歳を過ぎた頃、太宰治にはまりました。

 それはもう太宰の言葉を御神託のようにあがめていたように思います。

 典型的な「太宰ファン」で、太宰だけが自分の苦しみを理解してくれている、と勝手に思い込んで、

この思いは一生普遍的なものなのだと思っていました。


 なぜこんなにも太宰にはまったのか。

 その理由を一言で表すならば、

 『明るさをはらんだ暗さ』


 暗い暗い文章の中に、その暗さを一歩引いたところでせせら笑っている感じ。

 太宰の目線は常にそこにあったのではなかろうかと。


 内にこもる暗さと、それを小馬鹿にしている明るさ、矛盾した二つの性格を持つ太宰の、その矛盾こそが、

僕が太宰にはまった理由ではないかと思うのです。


 小説は、性格の悲喜劇。


 そんなこと、真摯に生きていたら思いつかない台詞です。

 強いもの、美しいものに誰よりも憧れながら、そんな自分を恥じている。


 この考えは間違ったものかもしれませんが、

 こんなことを考えられるようにしてくれた、太宰は今でも僕の憧れなのです。

 人間、バランスが大切である。

 正の部分と負の部分、どちらかに偏ってしまうと

なんらかのひずみが生じるものだ。

 清濁併せ持つ人間でなければ、この世の中渡っていけないのである。


 私は、自分の負の部分を他人に披瀝するのが苦手であった。

 負の部分を心の奥底に閉じこめているうちに、いつしか心にひずみができていた。

 そんな感覚を昔おぼえていた。


 もちろん、こんなのは自意識過剰のなせる業にすぎないと今では思うのだが、

それでも自分がどこかズレているという感覚はぬぐいきれない。


 要するに、人間として欠陥品なのであろう。

 それが、私という人格の製造過程のどこが原因なのかは分からないし、今となってはどうでもいい話である。

 今はただ、自分が欠陥品だという事実だけがある。


 そして欠陥品は、なにをのたまっても欠陥品でしかない。


「ダメなやつがいるから、優秀な奴がひきたつんだ」


 欠陥人間として出荷されてしまった以上、あとはもう、欠陥人間として、開き直って生きるしかないのである。


 そんな、何か考えてそうで実は何も考えていない人間の、これは単なる手記なのである。