私から見て、地球があって、日本があって、自分の家があって、親がいる。
おはようと挨拶してくる。
これは、どこまでが他人と共有されているのだろうか。
普通に考えると、そこに親という人間がいて、親がおはようと言う。
となる。
しかし、誰も他人になったことがない。
他人からどう見えるか自分と比較はどうやってもできない。
だから、私から世界の界面を観測すると、おはようという親がいるだけで、
その親は向こうにとっては親ではないかもしれないし、こんにちはと言っているのかもしれない。
つまり、見ている世界そのものが自分用にしか存在しないというものの見方である。
他人とのつながりは、そこに介在する翻訳機によって変換されているとすれば・・・・
もはや何が正しく、何が正しくないのかわからない世界が広がっている。