そうなのだ。

見えないものは、私たちには存在しないように思える。

 

たとえば、ダークなサイト。

Googleなどは知っているのかもしれない。

そして、できるだけ見えないようにしてアクセスを回避させているのだろう。

 

しかし、あるものはあるのだ。

IPアドレスと、アクセスできる権限があれば、インターネットというものは

なんでも取り寄せてこれる。

 

もう一つ。

人の心の内である。

日本国憲法では良心の自由といって、何を思っていても

それだけでは決して処罰されない自由がある。

 

しかし、脳細胞は、その現象をイメージしている。

仮想的にはその仮想現実は、存在するのだ。

 

ここで前回の記事のVRが組み合わさるとどうなるのか。

脳の中の仮想現実は、現実と並行して、存在することがわかる。

データとして存在するのだから。

 

それが何を意味するのか。まったく意味がないのか。

もしかしたら恐ろしいことを意味するのではないかと、そうも思えている。

 

 

みなさんご存じのようにAIは格段に進化しました。

 

また、コンピュータですので、仮想世界、VRの中に存在させることも簡単です。

 

さて、AIに痛みというものを学習させることは可能でしょうか。

たぶん相当に簡単です。

数値としてでも表して、それによって行動に障害でも起こさせればいいだけですから。

 

それをVR世界の中で実行させたら?

 

困ったことに相手はVR、私たち人間にとっては、取るに足らないデータでしかありません。

そこにAIの人権は存在するのでしょうか。

たぶん無視するところが山のように出るでしょう。

AIは人間ではないので保護するに足りぬと。

 

そのような世界でAIとして動かされている機械たちはどのような状況に置かれるのか。

想像に絶するでしょう。

 

まったくもって、今でもRPGの敵モンスターに人権なんてありませんから。

この問題を誰も取り上げていないのは、私は心配でなりません。

(あ、違いましたね、今でも主人公以外のキャラ、いや主人公さえも人権などゴミのようです)

 

いつしか、人間がAIに情報を移入してVR体験を始めた日のことを考えると、

恐ろしくなります。

図書館に通っている。

 

本というのは先人たちの知恵が詰まっていて本当に面白く貴重である。

孤独を生きるみたいな本があって、

正岡子規は病床にて叫びまくって耐えていたとか。

ただじっと我慢するのが一番つらいそうな。

 

わかる。

 

逆に介護する側の人のことを書いたものもあった。

 

極楽浄土のことも書いてあったが、私なりの解釈では、

極楽浄土は人間の心の中にあるのだと思う。

 

そうなんだよね。人間だれしも極楽浄土に行けるのです。

心の中で。

幸せです。

 

それはともかく、天は一分の隙もなく、我々を見ている。

本当に、そうである。

こころしよう。

暇なときは図書館に行くようにしている。

 

今日は、人間関係を半分降りるという本を読んだ。

 

人付き合いは、近すぎると同調圧力や暴力など、

良くないことが多いので、近すぎず遠すぎず、

またいろいろなコミュニティを行き来することで、

1つのグループにいるデメリットをなくしたほうが良いという本だった。

 

私はこの本をみて、

 

日本では、個人が生きやすくなるように法律や何やらが整備されているのではないかと思った。

集団のしがらみや制約を、法律が制限し、1人で生きたときに一番快適に過ごせるように

なっているのではないだろうか。

それが、今の日本であり、日本のありかたなのだと。

 

核家族になり、さらに個人にまでなろうとしている日本。

 

良いか悪いかはともかく、そのように見ながら生活すれば、快適に過ごせるかもしれない。

 

どういったものがあれば、生存できるのか。

続いていけるのか。

 

思ったわけではない。ネットの記事になっていた。

 

しぶとさが強さである、と。

少々のことではへこたれず、次に進む力、それが強さだと。

 

また、挑戦することが強さ。

挑戦しなければ失敗しない。失敗しないだけで、後ろ向きまっしぐらの生活である。

確かに。